芸者「たつ」(偽おりょうさん)の写真について その5

 

芸者「たつ」(偽おりょうさん)の写真については、そもそも京都の井口家が
所蔵してした写真アルバムに全身像の芸者の写真があったことから勘違いが始
まる。
この井口家が所蔵してした写真アルバムは「井口家アルバム」と仮の名が附け
られているが、正しくは「中井弘旧蔵写真アルバム」というのが正しい。
だから、当然、この芸者が何者なのかを考えれば、まず調べなければならない
のは中井弘のことになる。
また、中井弘は「なかい ひろし」と書かれることが多いがこれは「ひろむ」が
正しい。
このことは霞会館華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成』(霞
会館、  1996年)及び、中井弘のご子孫・屋敷茂雄氏が書かれた『中井桜洲
明治の元勲に最も頼られた名参謀 』(幻冬舎ルネッサンス 2010年)を読め
ば納得いただけると思う。

この中井弘(中井弘蔵)は後藤象二郎や坂本龍馬らにその剛毅な性格を愛され、
彼らが工面した資金で英国へ密航留学している。
従って、この中井弘が上京したおりょうさんを連れて、浅草大代地の内田九一
の写真館でおりょうさんの写真を撮ったと空想、妄想する馬鹿な人もいるが、
だからといってそれを証明する根拠は何もない。

ところが明治初年の築地時代の中井弘について調べてみると、これは確かに傍証
にすぎないが明治初年の新橋芸者で松屋のお辰という芸者を贔屓にしていたこと
が書かれている。
このことを考慮すれば井桜直美さんが平和島の大骨董市で偶然に発見された、写
真台紙裏側に墨書きで「たつ」と書かれた半身像の名刺版写真は重要な意味を持つ。
真のおりょうさんは「たつ」という記述や「たつ」と呼ばれたことはないからである。
このことはおりょうさん本人が坂本龍馬に自分の本名は「りょう(龍)」と言って
いることや、おりょうさんが晩年に遠縁にあたる安岡秀峰にインタビューを受けた
『反魂香』などでも「お良」と書かれていることからも断定できる。

だから普通に素直に考えれば、この「中井弘旧蔵写真アルバム」にあった芸者の写
真は、中井弘が明治初年に贔屓にしていた新橋芸者で、松屋のお辰という芸者であ
ると考えた方がいいのである。

岩崎弥太郎

 04

岩崎弥太郎が商人として身を立て海運業に専心するのに役立ったのは、慶応三年
(1867)三月に、土佐藩の重役・後藤象二郎に抜擢され、土佐藩の貿易に従事し、
長崎で約二年間に体得した海運と貿易の現場感覚だった。
長崎では土佐商会(後の三菱商会)を立ち上げている。
この土佐商会で岩崎弥太郎は諸外国から来日した長崎の外国人商人たちを取引相
手にし、親交を深めることになる。
この広い海外人脈が後の岩崎弥太郎の大きな強味となったのはいうまでもない。

しかしながら、当初、岩崎弥太郎は日本の商慣習を墨守する大阪商人との交際は
苦手だったという。
これに対し、岩崎弥太郎は取引上でも堂々たる態度で合理的に用件を処理する外
国人商人たちとの折衝を得意とし親交を深めた。

ドイツ商人のルイス・クニッフレル、英国スコットランドからやってきた商人のト
マス・グラバー、米国商人のトマス・ウォルッシュ、ジョン・ウォルッシュ兄弟ら
外人の信用を得ていたのだ。
この中で特にトーマス・グラバーとは、艦船や武器弾薬の商売を通じて、後に、高
島炭坑の開発にも関わることになる。

岩崎弥太郎は、海外貿易には語学が不可欠と考えて、後に大阪の岩崎邸内に英語学
校を開き、校長に就任している。
また、この岩崎邸内の英語学校は、語学に堪能な三菱の社員育成に大きな役割を演
じ、豊川良平、川田竜吉、林包明らの逸材を多く輩出している。

「龍馬夫人伝」展

03

ウォルッシュ・ホール商会のご子孫所蔵の古写真を展示した「龍馬夫人伝」展

8月1日の日曜日、松浦清文氏(ウォルッシュ・ホール商会のご子孫)の古写
真展を観るために、僕の住んでいる東京江東区から遠い小田急線・桜ケ丘駅に
行ってきた(家から1時間半掛かりました)。
同行者は午前11時に桜ケ丘駅で待ち合わせをした天然理心流を学ぶ女性剣士
・小曾根久美さんです。

駅前にはタクシーもなく仕方ないのでこの炎天下、汗を流しながら小曾根さん
と二人で桜ケ丘駅から約15分もてくてく歩いて会場に行きました。

ところが、・・・会場の受付で聞くと、やってないのです!
そこで手にした案内のチラシを見せると、受付のおばさんが急に思い出して、
そういえば似たようなチラシがロビーに貼ってあるといいます。
そこで壁に貼られた二枚のチラシをよく見ると、「8/1(日)~8/31(火)」
の「8/1(日)」の部分を、赤いマジックペンで「8/3(火)」と修正してい
ました。
「それはないよねぇ、・・・」と文句を言っても仕方がないので、受付のお
ばさんにこの展示の係の人と松浦清文氏にこういう者が来場したとお伝えく
ださいと言って、名刺だけ置いて駅に戻ることにした。

無駄足でせっかくなので、会場の手前で見かけた「大和霊園」という墓域の
入口にある添付の説明板を読んで、ちょっとだけ立ち寄ることにした。
墓域の奥に「福田開拓九人衆之碑」と「姥山由来記」があり見学する。

《姥山伝説》
福田開拓九人衆の一人、小林大玄の妻イトは、夫の家出を悲しむあまり発狂し、
人々を脅かしては盗みを働き、果ては幼児までも食べてしまいました。
たまりかねた村人は花見の宴で毒を盛り、イトを亡き者にしてしまいます。
それ以来この山は亡霊がでるという噂が広まり、近寄る人もなくなりました。
ある時、ここを通りかかった高貴な人が、和歌を詠んで冥福を祈ったところ、
亡霊も出なくなったということです。
村人は優婆尊尼像をいただいてお堂にまつり、やがてこの像は
子育ての姥さまとして親しまれるようになりました。
(『やまと歴史マップ』より)

ここには他にも以下の土岐家第十代 美濃国守護職 土岐頼純を偲んで建立した
供養碑がありました。
http://park.geocities.jp/yat5aze2/kinenhi/toki.html

帰りは「大和霊園」前のバス停から市営バスに乗ることにしたのだが、うっか
りPASMOを間違ったところにかざしてしまい、運転手に過払いになると注意され
て、桜ケ丘駅に着くと現金ではなくこの地元の市営バスでしか使用できない小
紙のチケットで過払い金80円を返金して貰いましたが、日曜日ということも
ありバスの営業所も閉まっていて(たぶんです。バスの営業所がどこにあるの
かも知らない)、他に換金するところもないので実質損をしてしました。しく
しく・・・。

それから一時間ちょっとかけて新宿まで戻り、同行者は小曾根さんには悪いこ
とをしたので(僕のせいではないけれど)、新宿中村屋で遅めの昼食(名物の
カレー)をご馳走して別れました。

ここで僕の方はせっかくだからと紀伊国屋書店に立ち寄って本を買って帰るこ
としただが、ここでも僕は失敗してしまいすでに購入していた大仏次郎の文庫
版「天皇の世紀③」をまた買ってしまいました。
(帰宅後に同じ本をすでに買っていたことに気がつきました、・・・しくしく)

紀伊国屋書店を出ると、酷暑なので喫茶店でアイスコーヒーでも飲んで行こうと
思いましたが、どこも人でいっぱいで空いている席もなく、何だかついてない一
日なので、もうどこにも立ち寄らずにおとなしく帰宅することにした。
やれやれ、・・・

古写真界の四変人の一人松浦清文さんの古写真コレクションを展示した「龍馬夫
人伝」展はしょぼい展示のようですが、8月3日から31日までやる予定だそうです。
ご本人は土日の午後1時から4時まで会場にいるようですが、事前に会場に確認
したほうがいいようです。

場所は、
大和市草柳8-12-1
大和市環境管理センター管理棟2階サロン
046-269-0504
です。

若い頃のおりょうさんと言われる偽おりょうさんの写真について

02

今年はNHKの「龍馬伝」が大人気で放送されていることもあって
坂本龍馬関係の出版物がものすごい数で出版されているが、こう
いう本にまた若い頃のおりょうさんと言われる偽おりょうさんの
写真が掲載紹介されていてひどい状況になっているのは嘆かわしい。

この若い頃のおりょうさんと言われる偽おりょうさんの写真につい
ては、真のおりょうさんの写真ではないのだが、長らくその正体が
よく判らなかった。
おそらく明治時代の東京の芸者の写真だろうというのが、これまで
の古写真研究者の見解であった。
これはこの写真に写っている背景の腰板のデザインや椅子、絨毯の
模様などから、東京浅草大代地の内田九一の写真館で明治四年から
六年前後の時期に撮影された写真であることが100%断定できる
事と、この女性の着物の着付けが普通の女性の着付けではなく、芸
者の着付けであることからも判る。

また、こののおりょうさんと言われる偽おりょうさんの写真が当時
のブロマイド写真であることは、この写真がある「井口家アルバム」
の他の多くの写真もそうだが、写真台紙裏側には内田九一の写真館
を示すデザインが何も印刷されておらず白いままであることや、表
側の写真台紙の縁にも何も印刷された線などがないことから判る。

ではこの芸者は何者なのかということになるが、今年になって僕が
いろいろと明治初年の芸者の参考資料を調べてみると、どうやらこ
の芸者は新橋芸者で松屋のお辰(おたつ、たつ、おりう、お龍、お
竜とも書かれる場合がある)という芸者であることが判った。
僕は以前に「下谷のたつ」か「柳橋のたつ」という芸者だと考えて
いたのだが、これは誤りであった。
ここでお詫びして訂正させていただきたい。
ごめんなさいでした。

*ご覧の写真は『RYOMA Graphics 坂本龍馬と生きた
幕末の100人 』に掲載されていた現京都国立博物館所蔵の「井
口家アルバム」にあるのおりょうさんと言われる偽おりょうさん
の全身像のタイプの名刺版写真
(差し込み式のアルバムのページから写真を抜いた状態のもの)

憲政資料室の榎本武揚関係文書の名刺版写真

 

先日、国会図書館内にある憲政資料室に榎本武揚関係文書
の名刺版写真を観に行ってきた。
榎本武揚のご子孫である榎本隆充さんから、憲政資料室に
榎本武揚関係の名刺版写真を預けていると聞いて、今年に
なってコピーでそれを見せて貰ったのだが、どうしても写
真台紙の裏側なども確認したくて、憲政資料室に榎本武揚
関係の名刺版写真を観に行ってきたのだ。

憲政資料室の榎本武揚関係文書の名刺版写真は、マイクロ
フィルムで閲覧することができ、以下の写真がありました。
*印は内田九一撮影の写真です。(5枚ありました)

【榎本武揚等名刺版写真 四十六枚一袋】
1 安藤謙介
2 安藤太郎・・・3枚
註:このうち1枚は中島待乳の写真館で撮影された名刺版写真
3 荒井郁之助・・・清水東谷の写真館で撮影された名刺版写真
4 赤松則良
5 榎本武揚・・・3枚
6 林 研海・・・塚本楊東の写真館で撮影された名刺版写真
7 林 洞海・・・塚本楊東の写真館で撮影された名刺版写真
8 石黒五十二・・・上野彦馬の写真館で撮影された名刺版写真
9 伊藤梅子
10 岩倉具視
11 兼松直稠
*12 勝 安房・・・2枚
13 桂 太郎
14 北垣国道・・・清水東谷の写真館で撮影された名刺版写真
15 黒田清隆
16 村田経芳
17 鍋島直大
18 中井 弘
19 大久保利通
20 大塚オクジ?
21 大山巌
22 尾崎行雄
註:目録には尾崎行雄とあるが、実際は岐阜県人 伊国公使館
二等書記官 尾崎逸足。
23 沢太郎左衛門
註:この写真は『幕末明治の肖像写真』のp53下の写真と全
く同じ写真。
24 鈴木キンゾー
25 鈴木観月院・・・清水東谷の写真館で撮影された名刺版写真
26 寺田弘
27 寺島宗則
*28 徳川家達
29 山内堤雲・・・塚本楊東の写真館で撮影された名刺版写真
30 調所広文・・・清水東谷の写真館で撮影された名刺版写真
31 経訓・・・塚本楊東の写真館で撮影された名刺版写真
*32 不明・・・5枚
註:これは、
*・黒田清隆
*・柳生保申
・河島醇・・・この写真は『幕末明治の肖像写真』のp155左上
の写真と全く同じ写真。
・不明・・・この写真は『幕末明治の肖像写真』のp201右上の
不明の人物と、同じ人物の別タイプの写真。
・不明・・・この写真は『幕末明治の肖像写真』のp116右上の
不明の人物と、同じ人物の別タイプの写真。
33 外人・不明・・・5枚

【手札版写真 十枚一袋】
34 花房義質
35 北白川宮能久
36 西郷従道
37 渡邊洪基
38 田辺太一、安藤太郎、大鳥圭介
39 徳川、土屋、清水
註:これは徳川昭武、土屋龍憲、清水誠の三人と思われる集合写真。
40 外人・不明・・・3枚

京都西本願寺

01

当初、新選組は壬生の八木邸や前川邸などに分宿していたが、元治二年
(1865年)三月十日、屯所が手狭になったためこの西本願寺に移転した。
長州藩に同情的だった西本願寺への嫌がらせともいう。
この西本願寺の太鼓楼は当時のままだそうだが、太鼓楼裏側にあった新
選組の屯所として使われていた北集会所は、姫路の亀山御坊本徳寺に移
築されている。
また新選組の隊士だった島田魁は明治になってこの西本願寺の守衛とし
て働き、ここで倒れて七十三歳で亡くなっている。

ご覧の古写真は明治になってからの京都西本願寺本堂(阿弥陀堂)の大
型手彩色古写真で、輸出、お土産、外国人向けに大量に複写制作された
横浜写真の一枚である。
この西本願寺本堂は平成の大修理で長らく工事中であったが、ようやく
それも終わり、かっての姿を取り戻している。

京都西本願寺については下記もご覧ください。

http://www.hongwanji.or.jp/

おりょうさんの弟・楢崎太一郎

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坂本龍馬の妻・おりょうさんの弟の一人に楢崎太一郎
という人がいる。
この楢崎太一郎については明治三十七年十二月十八日
の「東京二六新聞」の記事「阪本龍馬 未亡人龍子(三)
」に、「さて太一郎は吉井家に引き取られたけれども、
何分龍馬の後を継ぐ器でないので、数年間、吉井に養わ
れた後、一時海軍の楽隊となつたともあり、今は麻布辺
に住み砲兵工廠の職工を勤めて細い煙を立てて居るとの
事である。」とある。
ご子孫の方の話によれば、この後に太一郎は朝鮮に移り、
大正十四年九月一日、朝鮮兼二浦で六十九歳で没したと
のことである。
戦後、太一郎の長女・楢崎マサ(養子・又三郎を婿に貰
い楢崎家を継いだ)、現在の世田谷区北烏山の浄土真宗
存明寺に分骨された。

この世田谷区北烏山の存明寺の墓域にある楢崎家のお墓
を先日、お参りしにいったわけなのだが、それがご覧の
写真になる。

先日はこのお墓を観て、いろいろと写真を撮って、それ
から北烏山の他のお寺を墓マイラーとして観て歩いてい
たというわけだ。

一方、おりょうさんにはもう一人弟がいる。楢崎健吉と
いうのだがこの人は明治五年頃に本郷警察書の巡査(あ
るいは巡査見習)をやっていたのだが、間もなく脚気で
病死している。
この楢崎健吉のお墓はどこにあるのか、現在のところ全
く不明である。
そこで先日、探墓巡礼顕彰会の幹部の先生方にお願いし
て、楢崎健吉のお墓の行方について調べて貰えないかと
相談することにした。
今年中にそのことが何か判ればもしかしたら新聞記事と
して取り扱ってくれるかもしれない。

また、明治五年の頃におりょうさんが上京して住んでい
たのは、当時から木造二階建の棟割長屋が並んでいた築
地小田原町 (後の築地7丁目の界隈)と思われる。

築地の小田原町については、調べてみると以下のような
ところなので、興味のある方が居られれば一度歩いてみて欲しい。

*********************************

築地 小田原町

慶長年間(1596年から1614年)、江戸城増築の時、
相模国小田原から善右衛門という石工が来て、
この河岸を石揚場としたのにちなんで町名となったという説と、
相州小田原の魚商が、幕府に請うてこの地を開いたためという
説があります。

http://www.city.chuo.lg.jp/syokai/tyomeiyurai/tsukiji/

坂本龍馬の妻・おりょうさんのお墓について

 

横須賀大津の信楽寺にある坂本龍馬の妻・おりょうさんのお墓
について考えてみた。
おりょうさんの実母・楢崎貞(て以)や、この貞の養子で孫で
もある、おりょうさんの妹・光枝に関係した子供と思われる松
之助の戒名がこの信楽寺にある。
しかしながら、このおりょうさんの実母・楢崎貞(て以)と松
之助の墓は、この信楽寺にあった形跡がない。
(大昔はあったのだが整理されてしまったのであろうか?どな
たかご存知の方がおられればご教授いただきたい)

このお墓は上記のこともあって、明治三十九年一月十五日にお
りょうさんが亡くなって、それから何年もして大正三年八月十
六日に信楽寺の門前、向かって右下に墓碑として建立された。
この墓碑が平成十年に信楽寺の墓域改修の際に、現在の墓地の
奥まった場所に移葬されたのである。
信楽寺の新原住職のお話しによるとその際に前の墓碑の下から
は骨壷などは出土しなかったという。

まずなぜおりょうさんの墓碑がこの信楽寺に建立されたかと考
えれば、これは墓碑建立の賛助人・鈴木魚龍の菩提寺が、この
信楽寺であったことが大きい。
元々、おりょうさんの再婚相手・西村松兵衛の菩提寺であった
といわれているが、西村家は近江八幡の西庄(金田村)の出で
あることを考慮すれば、僕はちょっと疑問に思う。
それよりは墓碑建立の賛助人・鈴木魚龍の菩提寺が信楽寺であ
ったためと考えた方が理解できる。

ではおりょうさんが亡くなった当時、本当のおりょうさんのお
墓があったとしたらどこにあったのであろうか?
今度、それについても調査したいと僕は考えている。

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