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	<title>写真が紐とく幕末・明治</title>
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	<description>写真が紐解く幕末・明治</description>
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		<title>明治東京 新橋芸者 こさん（沢潟屋の小三）</title>
		<description>&#160;     ご覧の写真はつい最近入手した芸者こさんの名刺判写真だ。明治時代のいわば人気アイドル写真の一枚。この「こさん」について調べてみると、明治十一年の松本万年の『新橋雑記』に「沢潟屋の小三、亀屋の駒吉（容姿よし）。」と書かれている。おそらくこの「沢潟屋の小三」だろうとかってに考えて、さらに調べてみると成島柳北の『新柳情譜』に書かれていた。以下がその引用になる。小三（沢潟屋）　丸顔で眉毛が長く色白は誰か、仇名を白地蔵と呼んでいる。その名は小三であるという。小三は肌が白い上に、厚化粧なので、こうこうとして夜を照らしているようである。僧に聞いてみると、地蔵尊というものは慈恵に豊んでいて、人を救うので、それに報いる者が多いという。小三は多情多術で、千変万化なので、大ぜいの客が金を投げ出すようにして、その艶福を求めようとする者が絶えない。まさに地蔵の称は当っている。今年の五月十三日の夜、小三は情人と木挽町で災難にかかって縄目の恥をうけた。私は城北の地で、これをきいた。縛られ地蔵というものがあるが、小三はこれと似ていると言われても致し方はない。仇名が「白地蔵」というのも、今の時代ならばちょっとひどいような気もするが、当時としては肌が白い美人ということで誉め言葉なんだろう。古写真には当時の一般庶民の女性も多く写っているがその姿は色も黒く、スタイルも寸胴、短足で背も低く、容姿、見栄えもよくない。さてこの写真の「小三」については、皆さんはどう思われるでしょうか。 </description>
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		<title>東京 麻布十番 善福寺の逆さ銀杏</title>
		<description>  先日、麻布にあるお墓を調べに行く用事もあって、都営地下鉄・大江戸線、麻布十番駅で降り、ついでに麻布山善福寺の境内にある「逆さ銀杏」を見てきた。ご覧の古写真は麻布七不思議の一つでもある「逆さ銀杏」である。この「逆さ銀杏」は樹齢七百五十年の老大木で、親鸞上人が立てた杖が、そのまま地に生えてやがて大木となり、その形から逆さ銀杏とも、その成り立ちから御杖銀杏とも呼ばれ、天然記念物に指定されている。今見てもこの銀杏はかなり大きく、戦災の前は三倍位あったといわれているがどうだろうか。また、この「逆さ銀杏」がある善福寺は、幕末にアメリカ公使館となったお寺だ。だから「タウンゼント・ハリスの碑」もある。他にも墓域には「親鸞聖人像」、「福沢諭吉夫妻の墓」、「越路吹雪記念碑」と多くの重要文化財が点在している。おまけに「麻布十番」という地名の謂れは、昔、ここで売られた乗馬用の袴を「十番袴」と称していたので、そういう地名になったと伝えられている。今では「麻布十番」の商店街は、人通りも多く賑やかな街で、おしゃれな店も多い。「逆さ銀杏」がある善福寺の場所は下記をご覧ください。http://jin3.jp/7fusigi/sakasa.htm </description>
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		<title>宗家の人々</title>
		<description>     つい先日、品川区西大井6-10-18にある伊藤博文のお墓を観にいってきた。しかし、日曜日のため入口の門が閉められており、あいにく墓域に入ることができなかった。仕方が無いので七福人めぐりが大好きな僕は、前から気になっていた「荏原七福神」廻りをすることにした。品川区にはこの「荏原七福神」と「東海七福神」の二つがあるのだが、僕は以前に旧東海道沿いを散策して「東海七福神」の方はすでにクリアーしている。さて、この「荏原七福神」の一つに「養玉院如来寺」がある。このお寺は寛容で財宝をもたらす神、「布袋」があるお寺で、如来堂には五体の大きな仏像が安置され『大井の大仏（おおいぼとけ）』とも言われている。いつもの僕ならばここで「布袋」の印を貰ってさっさと次のお寺を目指して歩いていくのだが、何となく境内の石仏や石碑なども観ていた。すると如来堂裏に広がる墓地に古い大きな墓がたくさんあることに気がついた。こういう墓石のお墓はだいたい大名家の墓だと知っていた僕は、そのまま墓地の奥に誘われるように入り込んで、いったい何という大名なんだろうかと墓石に彫られた文字を調べてみることにした。すると驚いたことに「対州」と彫られていたのである。つまりここにずらりと並んだお墓は対馬藩藩主、宗家の人々のお墓（対馬藩宗家墓域）だったのだ。僕は対馬府中藩の第16代（最後）の藩主で、維新後、宗重正と改名した「宗 義達（そう よしあきら）」と思われるお墓に手を合わせて、宗家の家族写真については見つけて、今は全て大阪の内田写真株式会社が所蔵していることを報告した。それにしても偶然とはいえ、ちょっと不思議な気分だった。 </description>
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		<title>名流婦人の今昔</title>
		<description>    古写真の人物鑑定で難しいのが女性の古写真の人物特定作業だ。というのもそもそも女性の古写真で名前がはっきりしているベンチマークとなるような古写真が少ないからである。また、若い頃の女性の顔が歳をとると非常に変わることも多いため、どこかしら面影が残っている場合もあるのだが、ときには同じ女性とはどう考えても思えないこともある。そこで古写真ではないのだがご覧のような資料が役に立つのだ。僕の本来の研究テーマは幕末・明治初期の古写真なので、こういう参考資料は必要ではないのだけれど、よく古写真の鑑定を頼まれるので、最近ではこういう資料も見つければできるだけ購入するようにしている。あんまり手を広げすぎるとお金も掛かるし、際限が無いのだが先日もつい日露戦争関係の資料を購入してしまった。それと共に幕末・明治初期の膨大な参考書籍、古写真関係の本も読むようになった。自分でも何でこんなに古写真の世界にのめり込んでしまったのか。一枚の古い写真を解明するために何年も掛かっている。まぁ、それでも何十年もよく判らなかった古写真について解明できたときはうれしい。きっとこれからも古写真の森の中で道に迷っているんだろうなぁ、・・・そんな気がする。やれやれ。 </description>
		<link>http://morishige.omlog.net/archives/399</link>
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		<title>大久保利通と西郷隆盛</title>
		<description>      大久保利通の肖像写真といえばご覧の名刺判写真が一般的だ。また、西郷隆盛の肖像写真といえばご覧の写真が一般的だが、これは正確にいえば写真ではなくてキヨソーネが大山巌と西郷従道の二人の親族の顔を参考にしたモンタージュで、元は石版で作成したものを写真にしたものである。それでも今日、こういう古写真資料が残されているお陰で僕たちは大久保利通と西郷隆盛の姿を具体的なイメージとして知ることができるわけだ。司馬遼太郎先生の小説「翔ぶが如き」を読む際にもこういう写真があれば、よりリアルに小説を楽しむこともできる。また、僕のように大久保利通と西郷隆盛の二人の今のご子孫にも会ったことがあると、いっそう感慨深いものがある。ここ数年、不思議なことに古写真を調べているとその古写真に写っているご子孫に会うことも多い。それは大久保利通と西郷隆盛のような有名な人のご子孫もそうなのだが、一般の方には知られていないが幕末から明治初年にかけて活躍した人物の場合もそうなのである。こうなるともう縁としかいいようがないのだが、都内の霊園を歩いていてそういう人のお墓を偶然、見つけることもあるので、何だか奇妙な気分になることも多い。どうせなら僕としては美人の芸者さんのご子孫で、自分の恋愛対象になりそうな独身の美人の女性にお会いしたいものなのだが、そういことは一度もないんですよね、これが。とほほ、・・・もっとも古写真で見るヌード写真の女性はほとんど寸胴、短足の典型的な昔の体型で、今の女性と比べればスタイルが悪く魅力的ではないです。それでもたまに僕好みのすごい美人の古写真を見ると、会ってみたいと本当に思うことがある。もっとも今生きていてもすごいばーさんなんだからしょうがないですよね。古写真を多く掲載紹介している参考資料で新人物往来社、世界文化社の本があるけれど、そんな本に以前つきあっていて振られた彼女とよく似た古写真が掲載されていて、それを観たときにはちょっと懐かしかったし、悲しい気分にもなりました。あの子はいま何をしているんだろうとか、もう結婚したんだろうなぁなんて考えてしまって、それに比べて不甲斐ない自分を省みて遅くまでお酒を飲んだものです。やれやれ。 </description>
		<link>http://morishige.omlog.net/archives/392</link>
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		<title>江戸東京歩き</title>
		<description>&#160; 江戸東京歩き  ここ数年、週末になると東京の町を歩いている。一つには健康のためのウォーキングということでもあるが、ただ歩くだけではつまらないので、寺社仏閣、名所旧跡を訪ねて歩くようにしている。そのため出かける前には事前に歩く予定の場所の予備知識を参考資料になる本をよく読んで行くようにしている。最近は以前歩いた場所でもテーマを変えて歩くことも多い。それは時には名作の舞台であったり、幕末明治維新の有名人のお墓を探すことだったりする。そのため寺院の墓域や霊園の中を古いお墓を探して何べんも同じ通路を歩いて見て廻ることもある。その際には事前に社務所などに立ち寄りお墓の場所を教えていただいたり、その許諾を得てからということもあるし、時には勝手に墓域に入ってお墓を探すこともある。好きな小説の舞台を歩くのも楽しい。主人公が歩いた道を同じように歩いて当時の風景を想像するというわけだ。最初の頃は古写真の風景写真を眺めて、カメラポジションとなる場所を探して歩いたこともあった。大坂城や旧江戸城（皇居）周辺など今でも同じ場所で古写真に写された同じ風景を写真に撮る事ができるところもあるが、東京の場合そのほとんどがマンションなどのビルに邪魔されて見えない場合も多い。また古写真に写された寺社仏閣も関東大震災や東京大空襲で焼けてしまい、戦後再建されたところが多いので、同じ寺社仏閣でも今行くと本堂の向きや場所さえ変わってしまったところもある。また隅田川に掛かる橋も古写真に写された当時とはその位置が移動していたりするので、こうなるともう想像力をフルに稼動させなければ見当もつかないのだ。そのため僕はいつもカメラや名所旧跡の参考資料の他に、江戸切絵図、明治時代の地図、今の東京区分地図などの資料を持って歩いている。時にはそれ以外に小説も持って歩くので、カバンも重くなり非常に疲れることになる。また、僕は昼食や夕食はできるだけ現地のうまい蕎麦屋や鰻屋などに決めている。そのためそういうグルメなガイドブックや雑誌なども持ってゆくのだが、そのため何だか苦役を行う修行僧的な気分になることもある。こんなに苦労して東京の町を歩いているのに、帰宅してから反省会を一人でしていると見過ごしてしまったお墓や名所旧跡に気付くこともあって悔しい気分になることもあるのだ。  さて、そんな事をしていると古写真の研究に時々役に立つこともある。例えば僕は夏目漱石の足跡を訪ねて早稲田界隈を歩いたことがあるのだが、その途中で「清源寺」（新宿区戸山１丁目）というお寺に立ち寄ったことがある。「このお寺には墓域に漢学者の「長川東州」の墓である長川家のお墓と石碑がある。それからしばらくして、「長川新吾（東明）」という人物が写っている集合写真について調べていたのだが、「長川新吾（東明）」が漢学者の「長川東州」の養子であることがわかったのだ。そう、先日訪ねた「清源寺」の長川家のお墓は、「長川東州」と「長川新吾（東明）」の二人のお墓でもあったのだ。」そこで週末に改めて「清源寺」にもう一度行くことにした。前回はただ眺めていただけだったので、今度は長川家のお墓をきちんと調査するためだ。特にご子孫の行方を知りたいと思った。詳細は省くが墓石の裏に彫られていた文字を読むと大変参考になった。何だか不思議な気分になって僕はしばらく長川家のお墓をぼんやり眺めていた。  ご覧の写真が今僕が調べている写真です。   </description>
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		<title>古写真探索 その弐</title>
		<description>   ネットオークションに出品されている古写真には時には掘り出し物のいい古写真も出品されることもあるが、そのほとんどは骨董業者、古書店、古写真コレクターが入手したもので、その最初の出所も不明なため、詳細がよくわからない。また、中には悪質な業者もいて何の関係も無い文書と組み合わせて、さも関係があるように見せかけて古写真といっしょに出品していたり、鶏卵紙と写真台紙の組み合わせが違っている古写真を出品している業者もいる。これはどういうことかというと古い写真の鶏卵紙は剥がれやすいため、写真が剥がれて喪失してしまった人気のある写真館や写真師の写真台紙に、別の写真を張って売りつけるという手口だ。こういうことをされると古写真の意味が違ってくるし、今後の古写真研究で写真台紙の情報の信用度が無くなってしまうため、非常に迷惑なこととなる。また、横浜写真のアルバムなども一冊丸ごとだと高額なためなかなか買い手が見つからない。そのためこの写真アルバムを一ページ毎に切り離して、バラバラにして販売している。こうすると確かに値段も手ごろになるから売れるのだが、元々の写真アルバムとしての本来の情報は喪失してしまうため、古写真研究としての価値は無くなってしまう。歴史的な古写真としてはやはりその出所がいいものがいい。それはどういうことかというと、旧皇族、旧公家、旧藩主などの華族や、幕臣、諸藩士、通詞、乙名などの名家のご子孫が所蔵している古写真は、被写体の人物名もよく判るし、写真館、写真師、撮影日時、撮影場所などもベンチマークとなる古写真が多いため、他の古写真についてこれらの写真と比較分析することで役にたつからである。もちろん、これらの古写真はそれ自体も歴史的な貴重な古写真資料となっている。近年、これらの古写真も所蔵者（ご子孫）の代が代わることで、処分されたり、廃棄されることもあり、問題となっている。本来、しかるべき公的な機関などが、一般に広告、告知して古写真を処分する、廃棄する前に少なくとも一度は、そこが鑑定、判断し、場合によっては買取、委託、寄贈先となればよいのだが、それをPRする予算もないようでそのままになっている。地元の郷土資料館や博物館などに古写真が委託、寄贈されても、そこに古写真専門の学芸員もいないため、ただ倉庫に保管されているだけで研究、分析もされずに死蔵させているといった状況だ。また、東京国立博物館すらその保管状況もひどいため、年々、古写真の画像劣化や退色、剥離といったことも起きている。国も財政難といいつつも、文化財保護に関する関心も低く、予算配分もほとんどない状況だ。まぁ、そういったわけで僕のような素浪人の古写真研究家はどこに行っても重宝がられて、それは僕にとっても原資料である古写真の現物を観ることができるのでありがたい。個人的にはそれでもいいのだが、最近僕はこういう古写真資料の今後の行方、活用の仕方、後世に残す手段、保管、保存、管理などについても何とかできないかと考えるようになった。また古写真の研究成果を発表する場として、新たに古写真研究専門の学会、古写真研究者の育成も必要だと思う。 （写真は、内田九一の偽写真） </description>
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		<title>古写真探索</title>
		<description>&#160;        ヤフーのネットオークションなどで勝海舟などの有名人の名刺判写真が出品されることが時々あるが、たいていそういう写真は明治期にブロマイド写真として、特に東京の写真館がかってに複写して販売していた写真だ。それらは「カルタ写真」ともいう。そういう名刺判写真でも現在では数少なくなっているので、風俗学的には貴重な古写真資料ともいえるが、僕はそう思っていない。本当に歴史的な史料価値がある古写真は、一般の人には有名ではないけれど、以前にここで紹介した石田英吉のような海援隊関係者で明治になって県知事になった人物の写真とかの方が資料価値は高いと思う。特に幕末の長崎に留学していた旧幕臣、諸藩士とかのご子孫が持っていた古写真は、歴史性の非常に高い古写真だと思う。というのもそういう写真のお陰で、従来、人物特定ができなかった集合写真に写っている人物名が特定することができるからである。そのほかにも今までは単に芸者の写真とされていた明治初年の古写真が、実はその時代の人気芸者で深川の「おまつ」の写真だとか、後に明治高官に身請けされた妾のなにがしであるとかがこれで判明できるというのは、非常に重要なことだと僕は考えている。ずいぶん前に埼玉の古写真ハンター・青木さんが発見された、対馬の宗家の写真もそうだ。最後の対馬藩主の写真は今までもあったけど、奥方やその家族の写真についてはなかったので、これらの古写真は歴史的な資料だと思う。現在、これらの対馬宗家藩関係の古写真は全て大阪の内田写真株式会社が所蔵している。 </description>
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