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	<title>写真が紐とく幕末・明治</title>
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	<description>写真が紐解く幕末・明治</description>
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		<title>テレビ朝日「紳助 徳光の一枚の写真」</title>
		<description><![CDATA[
2月28日（日）の午後2時からテレビ朝日系列で全国放送される「紳助　徳光の一枚の写
真」というテレビ番組がある。
僕も「近藤勇の写真」の章を書いて参加している、今年4月末頃に出版予定の本『英傑た
ちの肖像写真～幕末明治の真実～』が、この番組の一コンテンツとして、少しだけです
が画面で紹介されている。

英傑たちの肖像写真～幕末明治の真実～』の「坂本龍馬の写真」の章を書かれた渋谷雅
之先生(徳島大学名誉教授)も出演されている。
他には、「土方歳三の写真」の章を土方愛さんが、「西郷隆盛の写真」の章を石黒敬章
先生が、「明治天皇の写真」の章を倉持基先生が書かれている。

皆さん、買って読んでくださいませ。
テレビ朝日「紳助　徳光の一枚の写真」については下記をご覧ください。
http://www2.kbc.co.jp/tv/1photo/episode03.html

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		<link>http://morishige.omlog.net/archives/819</link>
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		<title>万代修氏の行方２</title>
		<description><![CDATA[
僕はいまいろいろな人に万代修氏の連絡先あるいは現況について尋ねている。
それというのも万代修氏が幕末の京都で撮影されたと思われる古写真をいくつか発見さ
れているのだが、その古写真の現物が行方不明となっているからである。

ある人は2004年に日野でお会いしたといい、ある人はもう亡くなったと聞いているとい
い、まるで雪男情報のようにはっきりしない。
万代修氏の今の状況はわからないという。

万代修氏は幕末期の歴史研究では、きちんとフィールドワークを行い、詳細で丹念な調
査をされている。
それは万代修氏の著作である『新選組こぼれ話』（鳥影社、1984/06 出版）、『幕末・
維新こぼれ話』（私家本、平成3年（1991年））、『新選組追究録』（新人物往来社、平
成10年（1998年））や『新選組裏話』（新人物往来社、平成11年（1999年））を読むと
よくわかる。

万代修氏は大阪出身の市井の歴史研究者（郷土史家）で独身の方だそうだ。
そのためお子様もいらっしゃらないことから、もし亡くなられたとすれば、長年の研究
資料の行方も気になる。
コピーされた資料などは「日野市立新選組のふるさと歴史館」や京都の「府立綜合資料
館」にあるようだが、確認してみると古写真資料はないという。

誰か2004年以降の万代修氏がどうなったのかご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひ
教えてくださいませ。
よろしくお願い申し上げます。

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		<title>沖田総司の写真</title>
		<description><![CDATA[
沖田総司の写真ではないか？そういって鑑定を頼まれた古写真がご覧の武士の写真だ。
幸いなことにこの武士の写真には着物の紋がよく写っているため、すぐに沖田総司では
ないことが判った。
沖田総司の沖田家の家紋は「丸に木瓜」の紋であるからだ。

では、この人物は何者なのだろうか？ここからが僕の本当の仕事になる。
まずこの古写真が何という本に掲載されていたかといえば、今から四十年前に出版され
た『幕末の素顔　日本異外史』(文・永六輔、毎日新聞社、昭和四十五年（1970年)）と
いう本である。
この本の末文によればここで紹介されている古写真は全て米国国立図書館に所蔵されて
いる写真記録の一部だという。

他の写真にはベアトが撮影した古写真も数多く掲載されていることから、幕末に江戸で
撮影された写真のようだ。撮影者もベアトの可能性が高い。
そうなるとこの人物は幕臣のような気がするのだが、まだ名前まではわからない。
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		<link>http://morishige.omlog.net/archives/812</link>
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		<title>王子の名料亭 扇屋</title>
		<description><![CDATA[
先日、飛鳥山公園内にある渋沢史料館で行われた企画展「皿多一郎コレクション 絵皿は
語る－陶磁器で楽しむ明治・大正・昭和の世相と風俗－」に行ってきた。
特別対談『「絵皿は語る」を皿に語る』（石黒敬章氏（古写真収集家）×皿多一郎氏
（絵皿収集家））を聞きにいってきたのだ。
その帰り道にせっかくなので同行者を連れて、簡単に飛鳥山公園界隈を散歩しながら案
内をしてあげた。

東京のJR王子駅の王子神社側の改札を出て左に行くと石神井川（音無川）がある。
この石神井川（音無川）の右手に現在ある扇屋ビルが、かつての名料理屋「扇屋」があ
った場所となる。
この古写真でいえば、右手の建物がそうだ。
石神井川（音無川）をはさんで向かい側に庭園を持つ料理屋「扇屋」の横浜写真は、数
多く残されている。
江戸時代や幕末明治の料理番付にも、「扇屋」はたびたび登場している。
「扇屋」の名物は玉子の釜焼き折り詰めとあるが、今はその名残の卵焼きを、扇屋ビル
の１階入り口の一坪ぐらいの卵焼きコーナーで、お土産として販売している。
この扇屋の卵焼きは高島屋・新宿、日本橋でも販売されているそうだ。

下記の「落語「王子の狐」の舞台を歩く」もご覧ください。
http://ginjo.fc2web.com/34oujinokitune/oujinokitune.htm

渋沢史料館については下記をご覧ください。
http://www.shibusawa.or.jp/museum/index.html

]]></description>
		<link>http://morishige.omlog.net/archives/809</link>
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		<title>京都の初期の営業写真師</title>
		<description><![CDATA[初代堀與兵衛（二代目・大坂屋與兵衛）

堀与兵衛についてインターネットで調べてみると、下記のような情報を見つけることが
できる。
http://www.kyoto-shashin.jp/kpa/assc_history_index.html

京都写真師年表
（京都府写真師会 創設100年記念年表編集委員会編より）

文久三年（1863）
・辻礼輔，亀谷徳次郎，堀（大阪屋）与兵衛ら写真材料の研究、紙焼写真の製造に成功
する。
・堀与兵衛寺町通りに二階建硝子屋根の写場を設る。 

慶応二年（1866）
・堀与兵衛祗園切通に支店開設、この年から慶応4年までの売上帳その他現存する。

しかしながら、僕はこの内容は少し間違っている考えている。

そこで僕が調査した京都の初期の営業写真師・初代堀與兵衛（二代目・大坂屋與兵衛）
についての経歴を以下で発表しようと思う。

　堀家の先祖は岐阜県本巣郡軽海村（現在の岐阜県本巣郡真正町軽海）である。
　そして堀某氏（生没年は宝暦八年～天明八年（1758-1788））はこの地より一七七二年
以前に京都に来たといわれるが正確にはよくわからない。
　初代の大坂屋與兵衛は丸太町通堺町西入ル鍵屋町御門前（現在の丸太町通堺町西入ル
御所前）で天明三年（1783）に生まれ、「大与・大坂屋與兵衛」と商号し、当時として
はまだ珍しい硝子製造業を始めて商売をしていた。
　そして天保九年（1838）享年五十四歳で、この丸太町通堺町で亡くなった。

　この初代の大坂屋與兵衛の二代目が堀與兵衛で、文政九年（1826）に同じ丸太町通堺
町西入ル鍵屋町御門前で生まれ、幼名は松次郎といった。
　初代の大坂屋與兵衛の後を継いで硝子製造業を営み、嘉永、安政の頃に模造砂金石を
硝子で製造する事、つまり阿蘭陀伝来の硝子玉（ビードロ）の製造の成功し巨利を得て
いる。
この頃に大坂屋與兵衛から堀與兵衛と改名する。

　文久二年頃（c1862）京都の舎密学者・辻禮輔は、明石博高の主宰する「煉真舎（理化
学研究会）」に理化学製薬術、測量法、写真術等を講じていたが、実験用の硝子器を大
坂屋與兵衛が納める様になり、これが縁となって大坂屋與兵衛も「煉真舎」のグループ
の一員となった。ここで辻禮輔の指導の元に明石博高などと共に写真術の実技について
も共同研究することとなる。
　またちょうどその頃、長崎から亀谷徳次郎が京都智恩院山門下で写場を設けて営業写
真を開始したことから、亀谷徳次郎にも写真術の教えを受け、文久三年（1863）頃には
紙写真法を研究して紙焼きに成功したといわれる。

　元治元年七月の禁門の変により、御所周辺も焼け落ち、この時堀與兵衛の店も全焼
し、硝子製造業を廃業となる。
　その後、避難先でもあった寺町通佛光寺の唐物屋の出店に移り、更に適業を物色する
こととなる。
「写真術については文久年間より研究していたため、元治元年三月から京都寺町通仏光
寺境内、寺町通佛光寺の唐物屋の出店にも写場を設けて撮影していたが、この寺町通佛
光寺の唐物屋の出店があった寺町通高辻上ル夷ノ町五四二番の隣りの土地を購入し、山
城国季宿郡下京第十三区寺町通高辻上ル夷ノ町五四二番を「堀写真館」の本店にして、
二階建て硝子屋根の本格的な写真館を創建し営業写真師として本業とした。
　このため堀家では営業写真の創業を元治元年としている。

　また、慶応年間～明治十年頃まで（c1865-c1877）京都祇園町切通東入ル、現在の「葛
きり」で有名な店「鍵善」の辺りに祇園支店を開いて営業している。
　慶応三年十二月、仁和寺宮様還俗の御儀式には、写真撮影の御下命があり、この時
に、「月の家真澄」の名を仁和寺宮より拝受した。

　明治元年（1868）の戊辰戦争の際に撮影された湿板写真の桐箱上蓋裏には「西洋伝方
　写真処　出店ぎおん町切通シ東入ル　保利與平衛　皇都寺町通佛光寺内」と記されて
いる。
　またその頃のものとして「西洋写真薬法書」の資料がある。
　この明治元年に京都初代知事・槙村正直知事の要請で、舎密所用掛（協力方）を命じ
られ、舎密所に勤務した。

　第九回京都博覧会が計画されると、写真も初めて産業品目に加えられ、明治十三年
（1880）四月六日付けをもって京都府博覧会評方（今の審査委員）を拝命している。
　しかし、この年十一月六日、病のため享年五十五歳にて亡くなった。
　法名は聞法院真成日喜居士。西大谷に葬られた。

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		<link>http://morishige.omlog.net/archives/806</link>
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	<item>
		<title>「維新の道」 お龍さんの写真について</title>
		<description><![CDATA[

今年まとめた「お龍さんの写真について」の論稿が、来年４月号の霊山歴史館の機関紙
「維新の道」（2010/4/1）に掲載されることになった。

来年はNHKの大河ドラマで「龍馬伝」をやることもあって、おりょうさんの写真について
の問合せも多くなりそうだが、僕の方は一貫して「井口家アルバム（中井弘蔵旧蔵写真
アルバム）」にあった若い芸者の写真は、おりょうさんではないことを証明しようとし
ている。
まぁ、古写真収集家の井桜直美さんが見つけたこの芸者の半身像の名刺判写真の写真台
紙裏に墨書きで「たつ」と書かれていたことで、もうこの写真の芸者はおりょうさんで
はないと証明されたようなものなのだが、（井桜さんの写真と全く同じ写真で写真台紙
裏に「土井」と書かれた写真も別にある）いろいろ書く人もいるので、完璧にそうでは
ないことを何とか証明したいと考えている。

そのためには同じ芸者が写された写真を他にも見つけなくてはならないのだが、一応そ
の候補となる写真が三枚見つかったので、それについても来年、発表したいと考えてい
る。

ということで、来年４月号の霊山歴史館の機関紙「維新の道」をご期待くださいませ。

霊山歴史館の機関紙「維新の道」については下記をご覧ください。
http://www.ryozen-museum.or.jp/017.html

]]></description>
		<link>http://morishige.omlog.net/archives/805</link>
			</item>
	<item>
		<title>東京 聖徳寺</title>
		<description><![CDATA[
さて、先日の日曜日のウォーキングは、浅草田原町～松が谷町～河童橋界隈を歩いてみ
た。
目的は台東区松が谷二丁目三番三号の聖徳寺に行くことだった。

この辺りは以前にも何度か来たことがあるのだが、この聖徳寺には北庭筑波の門下で写
真師の二見朝陽（ふたみちょうよう、本名：小林利藤太）のお墓があると知ったので、
それを見るためだ。
たが、墓域を何度も探しても二見朝陽のお墓が見つかりない。

そこでお寺の人に尋ねてみると、昭和40年頃にご子孫が移転されたという。
また、ずいぶん昔の話なので残念ながら、ご子孫のお名前や、お墓の移転先などについ
ての情報もわからないとのことだった。

しかたがないので、聖徳寺の境内にある玉川庄右衛門・清右衛門の兄弟（玉川上水開削
工事の請負者）のお墓もついでに観ることにした。

この界隈には古くからのお寺が今でも数多くあるのだが、関東大震災や先の大戦の空襲
などで焼けている。
中には東京郊外に移転してしまったお寺も多い。

そういうわけで僕のような昔の参考資料を頼りにこの界隈のお寺を探す人間には、事前
に十分調べてからこの界隈に来ないと無駄になることもある。

まぁ、そういうことでも浅草が近いので、美味しいものでも食べて帰ることができるの
だからいいと思う。

玉川庄右衛門・清右衛門の兄弟のお墓は下記をご覧ください。

http://www.tctv.ne.jp/matuba/map/syotoku.html

北庭筑波（きたにわつくば）については下記をご覧ください。

http://www17.ocn.ne.jp/~ya-na-ka/kitaniwaTsukuba.htm
]]></description>
		<link>http://morishige.omlog.net/archives/804</link>
			</item>
	<item>
		<title>続・写真師・堀与兵衛の祇園支店のこと</title>
		<description><![CDATA[
京都の写真師・堀与兵衛の祇園支店のあった正確な場所について、「鍵善良房」の総務
部の大西さんにメールで問合せをしてみた。
大西さんによれば、現在の祇園の鍵善良房本店は、明治維新後、明治に入って四条通に
お茶屋の営業が出来なくなった事や、四条通の北側が拡幅になった時（明治27年に四条
通の一次拡幅（北側拡幅）が実行され、北座が廃止）に、元は四条縄手上ルにあった鍵
善良房が現在地に移動したそうだ。

というわけで、堀与兵衛の祇園支店のあった場所は、四条通の北側拡幅前の、現在の鍵
善良房本店とほぼ同じ場所と考えてもよさそうな気がしてきた。
もっともまだ100％確実になったわけではないのだが、この方向でもっと調べてみようと
考えている。

いつの日にかこの「鍵善良房」の店の前に「写真師・堀与兵衛の祇園支店跡」という石
碑が建てばいいのだがと思う。

「鍵善良房」については下記をご覧ください。
http://www.kagizen.co.jp/

]]></description>
		<link>http://morishige.omlog.net/archives/803</link>
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