Archive for 7月 14th, 2010

古写真について調べるならば その2

いつも不思議に思うのは、テレビ番組の制作スタッフや新聞、雑誌記者
はそのリサーチ能力が優秀にも関わらず、なんで古写真について専門家
の意見をちゃんと取材していないのだろうか?

何でも鑑定団で古写真の鑑定をされている日本カメラ博物館の谷野啓先
生や東京都写真美術館の金子隆一(東京都写真美術館専門調査員)先生、
長崎大学の姫野順一先生、あるいは市井の研究者でもある石黒敬章先生
と調べればすぐに連絡先もわかる、ちゃんとした古写真の研究者はいくら
でもいる。

普通、こういった先生方に複数ご意見を伺って、その上で文責を明らか
にして記事を書くというならば話もわかるが、そういうこともしないで
古写真について書いている人が多くいる。

先日の朝日新聞の浮世絵の千葉佐那の記事についても、
この記事を書いた新聞記者は、自分が恥ずかしいと思わないのだろうか。
その後、この浮世絵の女性は千葉佐那 ではなく千葉貞女(てい)だと
判明したのに、訂正の記事も朝日新聞には未だに掲載されていない状況だ。

この新聞記者には間違ったことを報道した場合、訂正記事を書くという、
新聞記者として当たり前の良心もないのであろうか。
やれやれ。


古写真について調べるならば

古写真についていといろと興味を持ってくれる人が多くなるのは、
大変嬉しいことです。
しかしながら個人の方のブログなどでいいかげんな事や、生半可
なことで間違ったことを書いている人も数多くいます。
まぁ、素人の方ならばそれも仕方がないのですが、仮にも歴史研
究者、あるいは歴史研究家、郷土史家として論文や記事を発表さ
れている方でも、いいかげんな事や、生半可なことで間違ったこ
とを書いている人も数多くいます。
これはその方がちゃんと自分で調べてもおらず、写真の現物さえ
見ていないにも関わらず、単に自分の想像、推測、妄想で書いて
いるのでさらにたちが悪い事例です。
また、このことで一般の方はその人の名前だけで信用してしまい、
さらに自分のブログなどで孫引きして書いて間違った情報を撒き
散らかすという悪循環の始まりです。

もっと困ったことはこれは一般の人のみならず、テレビの番組制
作スタッフや新聞、雑誌記者も同じです。
つい最近の具体的な事例でいえば、「女性自身」のシリーズ人間
「新説女龍馬伝 誰よりも龍馬さんに愛されたのは、私です」と
いう記事がそうでした。
これは女性自身の記者がせっかく阿井景子先生に取材して原稿を
書いて貰ったのにも関わらず、阿井景子先生のご意思も無視して、
記事の冒頭に坂本龍馬の写真とあの偽おりょうさんの写真を並べ
て掲載しておりました。
まぁ、一応「30代のお龍とされる。写真提供/井桜直美」と冒
頭のページの下に写真の説明が書かれていましたが、「結局、こ
の雑誌編集者、記者は、あの偽おりょうさんの写真をおりょうさ
んの若い頃の写真だと信じているんだなぁ」ということでした。
また、これを読んだ読者からすれば阿井景子先生もこの偽おりょ
うさんの写真をおりょうさ んの若い頃の写真だと思っていると
誤解されても仕方がないですね。

ちなみに阿井景子先生はこの写真は偽おりょうさんだと考えてお
られます。
やれやれ。


坂本龍馬のガラス湿板写真

坂本龍馬のガラス湿板写真(高知県立歴史民俗資料館所蔵)について

先日、ちょうど観劇のために上京されていた坂本龍馬のご子孫の一人、
土居晴夫先生にお会いしていろいろとお話を伺いました。

その中で、江戸東京博物館で原本が展示される坂本龍馬のガラス湿板
写真(有名な黒い台に寄り掛かって立っているポーズの写真)の話が
面白かったです。
この坂本龍馬のガラス湿板写真は、現在は高知県立歴史民俗資料館所
蔵となっていますが、この経緯がわかりました。

まず伏見の寺田屋・お登勢がいます。
この寺田屋は代々・寺田伊助を名乗り、寺田屋を継ぎますが、このお
登勢の遺児で、七代目・寺田伊助という人物がいます。

さらにこの七代目・寺田伊助に妹・きぬ(先代の三女)という人がい
ます。
このきぬさんの夫が大阪市議の荒木英一という人物です。

さらにこの荒木英一ときぬさんの娘が相部静子さんになります。
この相部静子さんは最初、神戸の東灘に住んでおられましたが、後に
千葉県八千代市に移転しました。

この相部静子さんは、あの寺田屋・お登勢の写真所蔵者で有名ですが、
坂本龍馬のガラス湿板写真はこの相部静子さんの所蔵していた写真で
した。
正確にいえば、元は荒木英一が所蔵していたわけです。

では、現在、この坂本龍馬のガラス湿板写真がなぜ高知県立歴史民俗
資料館所蔵になったかといえば、荒木英一が所蔵していた頃に、高知
の土陽新聞が本山白雲から仲介の依頼をされて、この坂本龍馬のガラ
ス湿板写真を本山白雲に貸したのがそもそもの始まりです。

本山白雲(辰吉)はこの坂本龍馬のガラス湿板写真を参考にして、あ
の桂浜に建つ坂本龍馬の銅像を製作したのです。
また、調べてみると本山白雲(辰吉)が桂浜に龍馬の銅像を建てたの
は昭和三年五月のことでした。

ところがどういうわけか、この坂本龍馬のガラス湿板写真は、荒木英
一氏に返却されずに、高知の郷土史家で武市半平太の子孫である武市
佐市郎にまた貸しされてしまいます。

さらに武市佐市郎の息子・武市祐吉氏が、この坂本龍馬のガラス湿板
写真を、昭和57年12月3日に、高知県立文化会館(現・高知県立
文学館)に寄贈してしまいます。
寄贈した時には、ガラス板のみで武市佐市郎さんの墨書きの「添書
があったそうです。

さらに後にこの写真は高知県立文化会館から今の高知県立歴史民俗
資料館へ移動しますが、これを知った武市祐吉氏は、そういうこと
ならば返してほしいと、高知県立歴史民俗資料館と訴訟事になった
そうですから、公文書館などで調べればもう少し面白いことがわか
るかも知れません。

いずれにしてもこの坂本龍馬のガラス湿板写真は、本当の元の持ち
主である荒木英一の元には、戻ることがありませんでした。
ちょっとひどい話ですよね。

そこで寄贈当時の新聞記事でさらに調べてみると、武市佐市郎の息
子・武市祐吉氏が、この坂本龍馬のガラス湿板写真と共に、
後藤象二郎、山内容堂のガラス湿板写真を、武市佐市郎所蔵写真と
して、昭和57年12月3日に当時の高知県立郷土文化会館に寄贈
していました。

武市佐市郎は井上俊三本人と懇意にしており、撮影時の様子も井上
俊三本人から聞いています。
そのため、この坂本龍馬のガラス湿板写真を、「坂本龍馬先生影像
原版、慶応二年撮影、武市建山珍蔵」と墨書して大切に保存してい
たそうです。

高村光雲の弟子・本山白雲(辰吉)については下記をご覧ください。
http://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/jinnbutusi/p019.html