Archive for 7月, 2010

東京 烏山寺町 その3

 

前回までの「写真が紐とく幕末・明治」で書き忘れた事があった
ので、蛇足になるが書くことにする。
烏山寺町の寺町通り沿いにある妙右寺と常栄寺にも僕は立ち寄っ
ていたのである。

築地本願寺と同じ建築様式の妙右寺では、墓域の中央に詩人・北
村太郎(本名:松村文雄)の墓があり、それも見てきた。

烏山寺町の帰り道には、常栄寺がまだ開いていたので、急いで本
堂裏手にある昭和時代の将士・升田幸三の墓と日本画家・奥村土
牛の墓も見てきた。

今回は「東京お墓散歩」などの参考資料を元に有名人のお墓をさ
っさと見て歩いたのだが、先日、創立50周年を迎えた歴史研究
会の連携団体「探墓巡礼顕彰会」の幹部の方々といっしょに染井
霊園を探墓巡礼する機会がありまして、先輩方の探墓行動を観察
していると、実によくお墓を観ています。
こういう地道な探墓活動から後に一般の人には無名だが諸藩の藩
士や幕臣、華族といった人のお墓が再確認されるということがよ
く判った。
これは僕のちょっと反省。
次回からは今まで行ったことのあるお寺でも今度は無名な人の古い
お墓もよく観て見ようと思う。

でも、そういうことをしているうちに、きっと僕もいつの間にかお
墓マニア、墓フェチになっちゃうんでしょうねぇ、・・・やれやれ。


東京 烏山寺町 その2

 

妙寿寺は法華宗本門流のお寺で山門を入るとすぐ右手に鍋島藩
の下屋敷の一部を移築した庫裡がある大きなお寺だ。
庫裡の前の道を挟んで反対側には大きな五輪塔があって、これ
が陸奥弘前藩主・津軽信義の墓碑だ。
この陸奥弘前藩主・津軽信義の墓碑がなぜこの妙寿寺にあるの
かは一切不明だという。
この庫裡と津軽信義の墓碑の間の道をさらに奥に進むと右手に
りっぱな本堂があって、ちょっとだけ本堂にお参りして、その
奥に広がる墓域に進む。
ここには江戸時代後期の心学者・中沢道二の墓と昭和期に活躍
した政治家・川島正二郎の墓などがあるはずなのだが、この二
つのお墓が見つからない。
広大な墓域にあるお墓を片っ端から見て回ったのだがないのだ。
こういうときは一度冷静になってスタート地点である本堂に戻り、
もう一度探すことにする。
そうしたら本堂の近くにあることにすぐに気がついた。
結局、僕は見過ごして歩いていたわけだ。やれやれ。
ここ妙寿寺には他にも幕末・明治初期の俳人・橘田春湖、昭和初
期の国文学者・小林好日のお墓があるということだが、すっかり
草臥れた僕はもう探すのを止めてしまった。

妙寿寺を出て再び寺町通りに戻ると、今度は宗福寺に入る。
このお寺の本堂裏側には井口家之墓があり、このお墓が作家・劇
作家の山手樹一郎(本名:井口長次)と作家・井口朝生の墓になる。

宗福寺を出ると次に隣にある称往院の、門前に説明板もある「不許
蕎麦入境内」の石碑を観る。
それから山門に入って左に建つ浄瑠璃「桂川連理冊」の主人公お半
と長右衛門の供養塔と、本堂左わきの墓地入口に並んである芭蕉十
哲の一人・宝井其角と、その父の榎本東順の自然石墓を観る。
「夕立や法華かけこむ阿弥陀堂」の句碑もあった。

戻って次に妙寿寺と宗福寺の間の道を西に歩いて、宗福寺の隣にあ
る浄因寺に入る。
まずは墓地入口近くにある歌人・内藤鋠策の墓を確認して、それか
ら目当ての戊辰戦争で戦死した福岡黒田藩士の慰霊碑を探したのだ
が、すぐに見つかりそうにないので、お寺の住職に尋ねて案内して
頂いた。

次に善行寺、万福寺の前を歩いて妙善寺に行く。
ここの本堂裏手の手桶置き場裏に江戸時代の戯作者・為永春水の墓
がある。

妙善寺を出ると門前の道を少し歩いて、それからまた寺町通りに戻
るために左折する。
すると僕の本日のスタート地点になる存明寺の前に戻ることになる
のだが、まだ時間もあるので幸龍寺に入ることにした。
とはいえ、寺が閉まる夕方五時までは時間も限られているので、広
大な墓域をゆっくり探索することもできないので、まずは本堂左手
奥にある小笠原長行とその嫡男・長生ほか小笠原一族の墓を観る。
それから江戸時代後期の絵師・長谷川雪旦・雪堤の墓を探すのだが
これがなかなか見つからない。
鐘楼傍にある漫才師・内海好江の墓はあったのだが、困ったことに
長谷川雪旦・雪堤の墓が見つからないのだ。
それでもようやくのこと長谷川雪旦・雪堤の墓を見つけて写真も撮
った。
ここでタイムアップ。

烏山寺町には他にも数多くのお寺があるのだが、それは次回のこと
にして帰宅することにした。
それにしても夏場の酷暑での探墓巡礼は、全身汗びっしょりで大変
でした。


東京 烏山寺町 その1

 

京王線・千歳烏山駅から北西に歩くとちょっと距離があるが、
北烏山二丁目、四丁目、五丁目に烏山の寺町がある。
この烏山の寺町は関東大震災後に東京市中の被災した二十六
の寺がここに移転してきたものだ。

偽おりょうさんの名刺版写真のことで調査をしている僕は、
横須賀大津の信楽寺のおりょうさんのお墓やおりょうさんの
妹・菅野起美、中澤光枝のお墓だけでなく、おりょうさんの
弟・楢崎太一郎のお墓があるこの烏山の寺町に行ってきた。
おりょうさんの弟・楢崎太一郎のお墓はすぐに判ったので、
詳細に調査してきたのだが、そのついでにここ烏山の寺町
にある有名人のお墓も見て回ることにした。
ということで今回は僕が見てきた烏山寺町の有名人のお墓
のことを書くことにする。
(墓マイラーの方、以下のレポートご期待ください!)

まず僕が最初に伺ったのはおりょうさんの弟・楢崎太一郎の
お墓があるお寺だけど、ここはまた別の機会に書くことにして、
その次に行ったお寺は永隆寺です。
このお寺には境内の本堂手前脇に江戸時代後期に疱瘡が流行し
た時に呪いで使った鶏卵の供養塚「鶏塚」がある。
墓マイラーの方のために詳しく説明すると本堂脇から裏の墓域
に進むとほぼ最初の右手の道脇に、左・落語家・三遊亭円生五
代目(本名:村田源治)と右・六代目(本名:山崎松尾)の墓
が並んで建っている。

次に行ったのが隣の専光寺だ。本堂すぐ脇に喜多川歌麿の墓が
あることで有名なお寺だ。
このお寺には他にも石油を日本で初めて販売した中川義右衛門
の墓や、刑事コロンボの声優で有名な小池朝雄の墓もあるのだ
が、これは見つけるのに苦労した。

その次は隣の永願寺の本堂でお参りだけして、さらにその隣の
髙源院に行く。
髙源院は入口左に久留米藩・有馬頼元とその夫人の墓がある。
本堂脇には弁財天を祀った浮御堂が鴨池に見える。
実はこの髙源院の本堂の真裏にマンガ「ギャートルズ」や「ペ
ースケ」などの作品で有名な漫画家・園山修二の墓がある。

ここから寺町通りを少し戻って、妙寿寺に行くことにする。


『英傑たちの肖像写真』 その2

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先日、僕が企画した共著『英傑たちの肖像写真』(渡辺出版、2010年)が、
(社)日本図書館協会より、「日本図書館協会選定図書」に認定された旨の
ちょっと嬉しい通知が渡辺出版から届いた。
取り扱い数も順調だという。
ジュンク堂書店、三省堂書店、丸善、紀伊国屋書店、八重洲ブックセンター
などの大手書店でも取り扱っているとのこと。
また、Amazon.co.jpなどのネットでも購入できるようになっているので、地
方にお住まいの方も購入できる。

ということもあって、先日、渡辺出版の渡辺社長主催で、新宿明治屋本店にて、
渋谷 雅之、 石黒 敬章、 倉持 基、 土方 愛各先生方といっしょに昼食会を行
った。
『英傑たちの肖像写真』の企画が始った時に、本来ならば最初に著者全員で顔
合わせをしようと考えていたのだが、各先生方もお忙しいということもあって、
個別で打ち合わせをしてこの企画は始った。
僕の方は最初から渡辺出版の渡辺社長に「確実に売れる本を作りましょう」と
言っていたので、渋谷 雅之、 石黒 敬章、 倉持 基、 土方 愛各先生方のご
希望もいろいろあったのだが、多少妥協もして頂いた。

それでも今回の共著『英傑たちの肖像写真』という本は古写真研究者のみならず、
歴史研究、幕末史ファンの方々にも喜んで貰えるようないい本になったのではと
思う。

渋谷 雅之、 石黒 敬章、 倉持 基、 土方 愛各先生方のみならず、この本を読ん
で頂いた読者の方々からも「古写真研究、歴史研究の原点になる本になった」とか、
「今現在の情報を整理して今後の研究者にとってもバイブルになるような参考資料
になった」などといった嬉しい感想を頂いた。
第二版になったら誤植も修正してもっといい本にしたいとも思う。
というわけで、まだ読んでいない方がおられましたら、ぜひ購入していただきたい。
よろしくお願いいたします。(ぺこり)


江良加代について

 

04

先日、日野の土方歳三資料館に行った帰りに高幡不動の駅ビルのある本屋さんで、
全くの偶然だが坂本優二著「龍馬を愛した女たち」(グラフ社)を立ち読みした。

この本で著者は、いきなり偽おりょうさんを江良加代としていますが、偽おりょ
うに顔の印象が似ているということでしか、根拠は何もない。
まずこの坂本優二氏という方は、江良加代のことをちゃんと調べてから書いてい
ないことがこれで判る。

江良加代は文久二年(1862年)三月生まれで、半身像のあの偽おりょうさん
の写真が撮影されたのは、写真台紙裏側のデザインから、明治四年(1871年)
から七年(1874年)の頃ということが判るので、江良加代は九歳~十二歳の
頃になる。

さらにいえば江良加代は明治十三年(1880年)までは京都に居た事が判って
いるので、あの偽おりょうさんの写真は東京の浅草大代地の内田九一の写真館で
撮影された写真であることから、同一人物ではないことが判る。

ということで、僕はこの坂本優二著「龍馬を愛した女たち」(グラフ社)という
本を買うのは止めて、以後、この坂本優二氏という人物の書いた本は信用しない
ことにした。(苦笑)


古写真について調べるならば その2

いつも不思議に思うのは、テレビ番組の制作スタッフや新聞、雑誌記者
はそのリサーチ能力が優秀にも関わらず、なんで古写真について専門家
の意見をちゃんと取材していないのだろうか?

何でも鑑定団で古写真の鑑定をされている日本カメラ博物館の谷野啓先
生や東京都写真美術館の金子隆一(東京都写真美術館専門調査員)先生、
長崎大学の姫野順一先生、あるいは市井の研究者でもある石黒敬章先生
と調べればすぐに連絡先もわかる、ちゃんとした古写真の研究者はいくら
でもいる。

普通、こういった先生方に複数ご意見を伺って、その上で文責を明らか
にして記事を書くというならば話もわかるが、そういうこともしないで
古写真について書いている人が多くいる。

先日の朝日新聞の浮世絵の千葉佐那の記事についても、
この記事を書いた新聞記者は、自分が恥ずかしいと思わないのだろうか。
その後、この浮世絵の女性は千葉佐那 ではなく千葉貞女(てい)だと
判明したのに、訂正の記事も朝日新聞には未だに掲載されていない状況だ。

この新聞記者には間違ったことを報道した場合、訂正記事を書くという、
新聞記者として当たり前の良心もないのであろうか。
やれやれ。


古写真について調べるならば

古写真についていといろと興味を持ってくれる人が多くなるのは、
大変嬉しいことです。
しかしながら個人の方のブログなどでいいかげんな事や、生半可
なことで間違ったことを書いている人も数多くいます。
まぁ、素人の方ならばそれも仕方がないのですが、仮にも歴史研
究者、あるいは歴史研究家、郷土史家として論文や記事を発表さ
れている方でも、いいかげんな事や、生半可なことで間違ったこ
とを書いている人も数多くいます。
これはその方がちゃんと自分で調べてもおらず、写真の現物さえ
見ていないにも関わらず、単に自分の想像、推測、妄想で書いて
いるのでさらにたちが悪い事例です。
また、このことで一般の方はその人の名前だけで信用してしまい、
さらに自分のブログなどで孫引きして書いて間違った情報を撒き
散らかすという悪循環の始まりです。

もっと困ったことはこれは一般の人のみならず、テレビの番組制
作スタッフや新聞、雑誌記者も同じです。
つい最近の具体的な事例でいえば、「女性自身」のシリーズ人間
「新説女龍馬伝 誰よりも龍馬さんに愛されたのは、私です」と
いう記事がそうでした。
これは女性自身の記者がせっかく阿井景子先生に取材して原稿を
書いて貰ったのにも関わらず、阿井景子先生のご意思も無視して、
記事の冒頭に坂本龍馬の写真とあの偽おりょうさんの写真を並べ
て掲載しておりました。
まぁ、一応「30代のお龍とされる。写真提供/井桜直美」と冒
頭のページの下に写真の説明が書かれていましたが、「結局、こ
の雑誌編集者、記者は、あの偽おりょうさんの写真をおりょうさ
んの若い頃の写真だと信じているんだなぁ」ということでした。
また、これを読んだ読者からすれば阿井景子先生もこの偽おりょ
うさんの写真をおりょうさ んの若い頃の写真だと思っていると
誤解されても仕方がないですね。

ちなみに阿井景子先生はこの写真は偽おりょうさんだと考えてお
られます。
やれやれ。


坂本龍馬のガラス湿板写真

坂本龍馬のガラス湿板写真(高知県立歴史民俗資料館所蔵)について

先日、ちょうど観劇のために上京されていた坂本龍馬のご子孫の一人、
土居晴夫先生にお会いしていろいろとお話を伺いました。

その中で、江戸東京博物館で原本が展示される坂本龍馬のガラス湿板
写真(有名な黒い台に寄り掛かって立っているポーズの写真)の話が
面白かったです。
この坂本龍馬のガラス湿板写真は、現在は高知県立歴史民俗資料館所
蔵となっていますが、この経緯がわかりました。

まず伏見の寺田屋・お登勢がいます。
この寺田屋は代々・寺田伊助を名乗り、寺田屋を継ぎますが、このお
登勢の遺児で、七代目・寺田伊助という人物がいます。

さらにこの七代目・寺田伊助に妹・きぬ(先代の三女)という人がい
ます。
このきぬさんの夫が大阪市議の荒木英一という人物です。

さらにこの荒木英一ときぬさんの娘が相部静子さんになります。
この相部静子さんは最初、神戸の東灘に住んでおられましたが、後に
千葉県八千代市に移転しました。

この相部静子さんは、あの寺田屋・お登勢の写真所蔵者で有名ですが、
坂本龍馬のガラス湿板写真はこの相部静子さんの所蔵していた写真で
した。
正確にいえば、元は荒木英一が所蔵していたわけです。

では、現在、この坂本龍馬のガラス湿板写真がなぜ高知県立歴史民俗
資料館所蔵になったかといえば、荒木英一が所蔵していた頃に、高知
の土陽新聞が本山白雲から仲介の依頼をされて、この坂本龍馬のガラ
ス湿板写真を本山白雲に貸したのがそもそもの始まりです。

本山白雲(辰吉)はこの坂本龍馬のガラス湿板写真を参考にして、あ
の桂浜に建つ坂本龍馬の銅像を製作したのです。
また、調べてみると本山白雲(辰吉)が桂浜に龍馬の銅像を建てたの
は昭和三年五月のことでした。

ところがどういうわけか、この坂本龍馬のガラス湿板写真は、荒木英
一氏に返却されずに、高知の郷土史家で武市半平太の子孫である武市
佐市郎にまた貸しされてしまいます。

さらに武市佐市郎の息子・武市祐吉氏が、この坂本龍馬のガラス湿板
写真を、昭和57年12月3日に、高知県立文化会館(現・高知県立
文学館)に寄贈してしまいます。
寄贈した時には、ガラス板のみで武市佐市郎さんの墨書きの「添書
があったそうです。

さらに後にこの写真は高知県立文化会館から今の高知県立歴史民俗
資料館へ移動しますが、これを知った武市祐吉氏は、そういうこと
ならば返してほしいと、高知県立歴史民俗資料館と訴訟事になった
そうですから、公文書館などで調べればもう少し面白いことがわか
るかも知れません。

いずれにしてもこの坂本龍馬のガラス湿板写真は、本当の元の持ち
主である荒木英一の元には、戻ることがありませんでした。
ちょっとひどい話ですよね。

そこで寄贈当時の新聞記事でさらに調べてみると、武市佐市郎の息
子・武市祐吉氏が、この坂本龍馬のガラス湿板写真と共に、
後藤象二郎、山内容堂のガラス湿板写真を、武市佐市郎所蔵写真と
して、昭和57年12月3日に当時の高知県立郷土文化会館に寄贈
していました。

武市佐市郎は井上俊三本人と懇意にしており、撮影時の様子も井上
俊三本人から聞いています。
そのため、この坂本龍馬のガラス湿板写真を、「坂本龍馬先生影像
原版、慶応二年撮影、武市建山珍蔵」と墨書して大切に保存してい
たそうです。

高村光雲の弟子・本山白雲(辰吉)については下記をご覧ください。
http://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/jinnbutusi/p019.html


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