Archive for 7月, 2009

荒井郁之助

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慶応元年(1865年)には歩兵指図役頭取となり、横浜で大鳥圭介と共にフランス式軍事
伝習を受け、慶応四年(1868年)一月に軍艦頭を命じられて海軍職に復帰、海軍副総裁
榎本武揚らと共に新政府軍支配下に置かれた江戸を脱出、箱館戦争に身を投じた荒井郁
之助という人がいる。

宮古湾海戦では、元フランス海軍士官ニコールの発案で、箱館政権(蝦夷共和国)の海軍
奉行・荒井郁之助、回天艦長・甲賀源吾らが宮古湾に停泊中の甲鉄を奪取する作戦を立
案し、フランス軍事顧問団のブリュネと総裁・榎本武揚がこれを承認した。

降伏後は死刑を免れて榎本らと共に開拓使の役人として新政府に出仕し、明治九年
(1876年)六月に辞任して農学校・女学校校長を勤めている。
その後は気象学・翻訳に励み、後に明治十年(1887年)に新潟県の永明寺山(現在の三
条市)において皆既日食観測を行った際に日本で初めて太陽コロナの写真撮影を成功さ
せている。
また明治二十三年(1890年)八月には初代中央気象台長に就任し、明治二十七年(1894
年)には正五位を賜っている。

というわけで先日の皆既日食を見てたら、荒井郁之助のことを思い出した。
さらに調べてみると明治五年に「壬申戸籍」が編製された際に、荒井郁之助
は本来、「士族」とするところを断り、あえて「平民」として記入している。
これは士族復帰の話もあったが本人が固辞し、平民のままでいたようだが、その時質問
を受けた荒井は、「敗軍の将、再び兵を語らず。牢獄から出てきた時に剣を捨てて、生
まれ変わって再生をしたのであるから、平民となるのである」と答えたそうだ。
荒井郁之助は元々、海軍職に深く携わっていた人なのだが、水泳が不得手で、更に下戸
だったという。 

荒井郁之助については下記をご覧ください。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E4%BA%95%E9%83%81%E4%B9%8B%E5%8A%A9

新撰組・谷万太郎と岩田文碩

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大坂にあって新撰組の屯所隊長を務めていた谷万太郎という人がいる。
三人兄弟の二番目で、兄は谷三十郎、弟に谷周平がいる。
兄の谷三十郎は、慶応2(1866年)年4月1日、京都東山の祇園社
(現:八坂神社)石段下にて頓死し、弟の谷周平は
近藤勇の養子となっている。
谷万太郎の方はその後、新撰組を抜け、維新後も大坂で道場を経営していた
が、後に道場経営に失敗し、商家の用心棒をしながら余生を過ごした。
妻・スエ(旧姓・岩田)とも離婚して、愛人であった吉村たみと同棲している。

この谷万太郎の妻・スエの実父が中山大納言の侍医・岩田文碩で、
谷万太郎とスエの間に産まれたのが、岩田弁太郎になる。
別居した谷万太郎と吉村たみとの間には子供はいなかったようだ。

こういう家族事情から谷万太郎が写ったガラス湿板写真は、大坂谷町で
洋装店を営んでいた岩田弁太郎家に伝わった。
ご覧の一枚目(左)の写真が中山大納言の侍医・岩田文碩の写真で、
二枚目(中央)の写真が谷万太郎の写真、三枚目(右)の写真が
谷万太郎の最初の妻・スエ(旧姓・岩田)の写真である。

谷万太郎の写真については前にも書いたとおり、市松模様の敷物が写っている
ことから、京都の写真師・堀与兵衛が慶応年間に祇園支店(写場)で撮影している。
一方、岩田文碩の写真については詳細が不明なため、まだ何とも言えないのだが、
この写真は大坂の写真館で撮影された写真のような気がする。
もしかしたら心斎橋傍(摂陽心斎橋北街)で営業していた中川信輔の写真館
かもしれない。
ちなみに慶応元年八月に木村兵庫頭(木村摂津守)もこの中川信輔の写真館で
写真を撮っている。

谷万太郎は明治十九年(1886年)、食道ガンのため大阪にて死去。
享年五十一歳。墓所は、大阪市北区の本伝寺にある谷累代之墓の墓石に、
兄の谷三十郎、弟の谷周平と共にその名が刻まれている。


参考資料『ホタルと新選組 里村欣三の母方の系譜をめぐって』
http://www.geocities.jp/satomurakinzou/tanisankyoudai.html

谷万太郎については下記をご覧ください。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E4%B8%87%E5%A4%AA%E9%83%8E

板垣退助

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東京都品川区北品川三丁目に品川神社がある。
この社殿裏に板垣一族及び板垣退助の墓があることは、一般にはあまり知られてないの
ではないだろうか。
この板垣退助の娘で三女に猿(のち婉と改める)がいる。
最初は安川甚一という人と結婚し、後の明治36年6月2日に写真師・小川一真の後妻とな
っている。
小川一真は、「小川写真製版所」を興し、数多くの写真集(写真帖)を刊行した明治時
代の代表的な写真師だ。
特に日本初のミスコンテストとして明治24年(1891)7月、開業半年を迎えた浅草公園の高
塔凌雲閣で行われた「百美人」と呼ばれる催しで、当時の有名芸妓百人の写真を撮影し
ている。
それにしても板垣退助が小川一真の義父であったとは、うかつにも最近気がついたこと
のなのである。

板垣退助については下記をご覧ください。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E9%80%80%E5%8A%A9

小川一真については下記をご覧ください。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E4%B8%80%E7%9C%9F

「東京百美人」については下記をご覧ください。

http://meijitaisho.net/100beauties/

土方歳三写真の謎 その九

その後の調査で東京日野の平家、土方家にある土方歳三の全身写真は、元々、写真台紙
表の下部に左から右に、「PHOTOGRAPHER  GK  JAPAN ARTIST」とデザインされた意匠が
印刷された写真であることが判った。
しかしながら、この「PHOTOGRAPHER  GK  JAPAN ARTIST」の写真台紙の写真(以下、
「GK写真」と略称す)が、どこの写真館で使用されていた写真台紙なのか判らなかった。
ところがである。
今年の日本写真芸術学会の年次大会で行われた懇親会にて、小沢健志先生、石黒敬章先
生、金子隆一先生などとこの件で尋ねてみたら、もしかすると既製品の写真台紙ではな
いか?という助言をいただいた。
そこで先日まで改めて明治期の主だった台紙製造業者についてを、以下の参考資料で調
べてみた。

小西六写真工業編『写真とともに百年(小西六写真社史)』
(小西六写真工業社史編纂室、昭和四十八年)
浅沼商会編『浅沼商会百年史』(浅沼商会、昭和四十六年)
『浅沼商会写真台紙定価表』
(浅沼商会、明36年、17.5x23 18p)
浅沼治編輯『浅沼藤吉伝』(非売品、1941年)
佐藤清一著『函館文化発見企画1 函館写真のはじまり』(五稜郭タワー株式会社、
平成十一年)
岩佐博敏『北海道写真百年史 蝦夷地写真の渡米より現代に至る営業写真の変遷』
(札幌写真師会、昭和四十五年)

その結果、少し判ってきたのは、函館の田本研造の写真館では、明治になって浅沼商会
から写真材料、写真台紙を仕入れていたということだった。

こういうことを地道にしていたら、ある日、突然ひらめいたのである。
というのも、浅沼商会は明治初年に写真台紙で、浅沼商会のオリジナルブランド名とし
て「キングの写真用品」という商品を販売していたのだ。
何が言いたいのかといえば、つまり「GK写真」とは「KG写真」(キングの略)ではな
いかということだ。
そうであるならば、このこの「PHOTOGRAPHER  GK  JAPAN ARTIST」の写真台紙の写真
(今後は訂正して、「KG写真」と略称す)は、函館の田本研造の写真館が浅沼商会よ
り仕入れていた「キングの写真用品」の写真台紙というのが、真相ではないだろうか?


上村彦之丞

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上村彦之丞は元は薩摩藩士で、野津鎮雄の配下として戊辰戦争に従軍、明治10年(1877)海軍兵学校卒業後は、明治37年、第二艦隊司令官として日清戦争に従軍し、さらに日露
戦争には第二艦隊司令長官として蔚山(ウルサン)沖でウラジオストク艦隊を撃破した人だ。
戦後は横須賀鎮守府司令官、第一艦隊司令長官、軍事参議官を歴任。
終生海上の戦将として過ごした。

この人は人間的な逸話の非常に多い人なので、これから始まるNHKのドラマ『坂の上の雲』でも注目される人物の一人だと思う。
どんな逸話かはあえてここには書かないので、興味のある人は自分で調べてみてくださいませ。

上村彦之丞については下記をご覧ください。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%91%E5%BD%A6%E4%B9%8B%E4%B8%9E

近代日本人の肖像
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/59.html