Archive for 5月, 2009

近藤勇の娘といわれる山田音羽

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近藤勇の娘といわれる山田音羽の写真がある。
この写真は永倉新八が持っていた近藤勇の写真について調べている過程で、永倉新八のご子孫である杉村悦郎さんのご著書に掲載されていたので、初めて知ることができた。
近藤 勇の京都時代の娘で、竹本綱枝こと山田音羽が、北海道札幌、旭川に公演した際に、永倉新八が「北海タイムス」に連載していた新聞記事から永倉新八と近藤 勇の写真の存在を知り、大正二年五月二十二日に永倉新八に会いにきた。
その時に山田音羽が永倉新八から近藤 勇の写真を借りて複写したしている。
この写真も今となっては山田音羽のご子孫は行方不明のため、現物の写真は確認できないが、永倉新八から近藤 勇の写真を借りて複写した写真ということから、これは近藤 勇が両腕を下ろしているポーズの写真と推察できる。
この写真については新選組研究の第一人者である釣 洋一先生を通じて、永倉新八のご子孫ある杉村悦郎氏に、永倉新八が持っていた近藤 勇と土方歳三の複写写真の形態を問い合わせ、再確認することができた。
但し、この竹本綱枝こと山田音羽が本当に近藤 勇の京都時代の娘であったのかは、釣 洋一先生も疑問に思っている。
山田音羽のご子孫か、何か情報をお持ちの方が居られればぜひご教授いただきたい。
ついでに書くと、釣洋一先生がいうには、杉村悦郎著『新選組永倉新八外伝』のP158Pに、近藤勇の娘と名乗る竹本綱枝こと山田音羽が公演した劇場として、現在の小樽市花園町の公園通りにあった演芸館跡の写真が載っているが、この写真は間違っていて、当時の演芸館は建物の裏、二本目の通りにあったそうだ。
さて、僕の方は杉村悦郎氏からお借りした山田音羽の写真を観て、この写真が勅使河原写真館で撮影された写真ということが判った。
この勅使河原写真館は幸いなことに広告を出していたことから、浅草公園五区にあった写真館だと判る。
またこれによれば夜間撮影が得意だった写真館らしい。
山田音羽については下記をご覧ください。
http://www.hokkaido-jin.jp/issue/sp/200407/extra.html


新撰組隊士 島田 魁

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新撰組の諸士調査役兼監察をしていた隊士で島田 魁という人物がいる。
この島田 魁については、中村彰彦さんの『いつの日か還る 新選組伍長島田魁伝』(文藝春秋)という名作もあるので、ご存知の方もおられると思う。
島田 魁は「しまだ かい」と諸書に書かれているが、新選組研究の第一人者である釣洋一先生のお話だと「しまだ さきがけ」が正しい読み名であるらしい。
僕もそんな気がしている。
さて、島田 魁についてご興味のある方は、上記の中村彰彦さんの小説やら、新撰組関係の本でも読んでいただいて、僕の方はこの島田 魁の写真について書くことにする。
実はご覧の写真が島田 魁の写真ではあるが、一枚目の壮年時代の肖像写真は、写真とい
うよりも肖像画を明治になって写真にしたもののようだ。そして二枚目の晩年の写真は兄弟等と一緒に写ったものだ。
これらの写真は写真台紙が写っていないため、どこの写真館であるのかよくわからなかったが、その後調べてみるとどちらも京都の堀真澄の写真館であることがわかった。
おそらく二代目・堀与兵衛(堀真澄)だろう。
そういうわけで、近藤勇、谷万太郎、成合清と続いて、この島田 魁の写真も明治時代になってからとはいえ、堀与兵衛(堀真澄)の写真館と関係があることがわかった。
京都の堀与兵衛(堀真澄)の写真館では幕末期に土佐藩士ほか様々な人物が写真を撮影しているが、新撰組の隊士たちも多く利用していたことが伺われる。
もしかしたら、土方歳三やその他の新撰組の幹部たちの写真も、今後新たに見つかるのではないだろうか。
とはいえ、そういう写真が仮に見つかったとしても、写真台紙裏の墨書きなどの根拠がなければ新撰組の幹部たちの写真と断定できないのであるから、難しいんですけどね。

【島田 魁】については下記をご覧ください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%94%B0%E9%AD%81


元新撰組隊士 川村三郎(近藤芳助)

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四月二十五日の土曜日、川村恵十郎の研究者・藤田さんといっしょに川村三郎(近藤芳助)のご子孫の一人、浅田康夫先生のご自宅に伺った。
あいにくその日は土砂降りの雨だったが、浅田康夫先生は快く僕たちを迎えてくださり、川村家について丁寧に説明していただいた。
特に藤田さんにとっては積年の疑問も解決して有意義な時間だったようだ。
僕の方は川村三郎が持っていた近藤勇と土方歳三の複写名刺判写真について再確認させていただいた。
ご覧の写真は横浜市会時代の川村三郎だ。
夕方、市営バスで横浜市内の最寄り駅まで戻ったのだが、そのバスがあちこちに寄り道して走るため、えらく時間が掛かってしまった。
この日は夕方に清澄白河にある深川めしで有名な「みや古」(創業大正十三年)に友人といっしょに行く予定だったので、非常に焦ってしまった。
川村三郎の生家があった場所もこの本所にある。
養子に行った先の近藤家は、市谷柳町の近藤勇の天然理心流試衛館道場と、道を挟んで向い側にあった。
そのため川村三郎は近藤芳助と名を改めたのであるが、養子縁組を解消されて川村家に戻っている。
明治なって川村三郎は横浜市会議員となるが、これも今の人の感覚だとよく間違えるのだが、当時は今の国会議員と同じくらいの地位であった。
【川村三郎】
若年の頃、江戸市ヶ谷におり 天然理心流道場の近隣とあって撃剣の稽古に通っていた。
池田屋騒動で名を上げた新選組の近藤らが江戸で隊士を募っていると知り応募上洛した(伊東甲子太郎らと一緒の元治元年のこと)入洛すぐに局内のようすをみて解約を望んだが許されず伍長に任ぜられる。
慶応四年八月二十一日 会津母成峠で新選組本体から離脱し、隊に戻れないまま放浪、米沢藩雲井龍雄の一行に加わり、その翌日永倉新八にも出くわし行を共にする。
江戸へ戻るという永倉と別れ、蝦夷渡航目指し仙台へ行こうとするも捕虜となって江戸送りとなり静岡に送檻、後年許されてそのまま静岡に居を構えた。
捕虜になった時点で名を元の川村三郎と改めた。
大正十一年没。
「横浜市会の新選組生き残り川村三郎」
(『郷土よこはま』104号1987年1月/横浜市立図書館)
www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/essay/pdf/asadayasuo.pdf
「近藤芳助」については下記をご覧ください。
http://wikipedia.atpedia.jp/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E8%8A%B3%E5%8A%A9


三鷹野崎村名主 吉野泰三家所蔵 土方歳三の写真

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先日、ようやく自由民権運動家の吉野泰三のご子孫にお会いすることができた。
この吉野泰三家には「日野市立新選組のふるさと歴史館」のパンフレットで、土方歳三の写真を所蔵していることは知っていたのだが、僕の方はそれとは違って自由民権運動家の吉野泰三が、自由民権運動のシンボルとして近藤勇の写真を祭っていたという逸話から、この逸話の真偽と現存しているならば近藤勇の写真を観たいため、吉野泰三のご子孫とお会いしたかったのである。
ところが、伺ってみると吉野泰三家には近藤勇の写真ないとのことであった。
その代わりに土方歳三の写真があったというわけだが、この写真がどういう理由で吉野泰三家にあるのか何の逸話も残っていないという。
近藤勇の写真については逸話はあるが写真がなく、土方歳三の写真については逸話がないが写真はあるという、不思議な話である。
もしかしたら、吉野泰三は自由民権運動のシンボルとして土方歳三の写真を祭っていたのかもしれない。
吉野泰三は野崎村名主、兼医師で、天然理心流門人でもある。
その妻は玉野豊次郎の妹・ダイといい、息子・泰之助の妻は土方歳三の姪・ユキのなのだ。
近藤勇の肩の傷を診察したという逸話もある。
また、近藤勇の娘婿・勇五郎とも親交があり、勇五郎が吉野泰三の用心棒を務めたという逸話も伝わっている。
さらに吉野家には近藤勇や土方歳三の書簡等も所有している。
吉野泰三についてはもう少し調べてみる必要がありそうだ。


日仏修好通商条約締結150周年記念特別展示

「維新とフランス--日仏学術交流の黎明」展
先日、本郷の東京大学で行われている「維新とフランス--日仏学術交流の黎明」展に行ってきた。
今回の展示は在日フランス商工会議所理事、株式会社セリク代表取締役社長、日仏関係史研究者である、クリスチャン・ポラックさんのコレクションを中心に特別展示されており、特に古写真関係の出品はそれは見事なものであった。
もうこういう古写真を観るとただため息しか出てこない。
ポラックさんは、芸術と歴史にスポットを当てて日仏関係史を紹介した『絹と光、日仏交流の黄金期(江戸時代~1950年代)』、『筆と刀、日本の中のもうひとつのフランス(1872年~1960年)』という二冊の著書を出版されている。
僕はこの二冊の本を読んで、ポラックさんの古写真コレクションを拝見したいと思っていたので、今回の特別展示はまさにその願いが叶ったというわけだ。
とにかくすごかったです。
日仏修好通商条約締結150周年記念特別展示
「維新とフランス--日仏学術交流の黎明」展については下記をご覧ください。
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/exhibition/2009FranceJapon.html


疾風怒濤の人 高杉晋作

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ご覧の高杉晋作の写真は大変有名なので、どこかで観た人も多いと思う。
この写真は長崎の上野彦馬の写真館で撮影された。
その根拠は高杉晋作の写真の後ろに写っている白い腰板が、同時代の上野彦馬が撮影した別の写真にも写っているからである。
では撮影時期はいつであろうか?
僕もちゃんと調べたわけではないが、同じ写真が慶応二年四月に高杉晋作から愛妾・おうの(後の梅処尼)へ送られた手紙に添えられていたことから、少なくともそれ以前(慶応二年四月以前)に撮影されたことは確実だ。
また、別の伊藤博文と写っている三人の集合写真も、おうのへ送られた手紙に添えられていたことから、慶応元年から慶応二年四月までに撮影された写真だと僕は思う。
もっと調べてみたいという方がいらっしゃいましたら、一坂太郎著『高杉晋作の29年』(新人物往来社、2008年)に、一坂太郎先生が現存する高杉晋作の写真について詳細に発表されているので、そちらをお読みください。
その他の基本参考資料としては、奈良本辰也著『維新前夜の群像第1 高杉晋作』(中公新書、1965年)をお勧めします。


京都の写真師・堀与兵衛のこと

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今年は近藤勇の写真の件で、ずいぶんいろいろなことが判ったので、京都の写真師・堀与兵衛については、いつかちゃんとした論文を書きたいと僕は考えている。
時々、間違ったことがインターネットでも書かれているけれど、堀与兵衛が開業したのは元治元年(1864年) 三月からだ。(慶応二年からではない)
このことは堀家に残る家譜に記載されている。
また文久三年(1863年)に長崎から上京した亀谷徳次郎(阿部寿八郎)が、コロジオン溶液などについて堀与兵衛に伝授しており、このことからも元治元年三月開業は確かなことと思える。
この元治元年(1864年)には、3月に水戸天狗党挙兵、6月5日(1864年7月8日)に池田屋事件、7月19日(同年8月20日)に禁門の変、8月5日(同年9月5日)に四国連合艦隊下関砲撃事件と、幕末期の重要な事件が次々と起きている。
京都ではだいたいこういう時期(文久三年から慶応年間)に次々と写真師が開業している。
亀谷徳次郎、堀与兵衛、堀内信重、日登美(人見)、一橋家お雇い横田彦兵衛(横田朴斎)といった人々だ。
大坂では内田九一、中川信輔、中村雅朝、守田来三、井上俊三なども開業している。
こういう写真師がいてくれたお陰で、今でも幕末期の写真が数多く残されているのである。
堀与兵衛のプロフィールについては以下をご覧ください。
(ご覧の写真が堀与兵衛です)
堀 與兵衛(大坂屋與兵衛・初代堀 真澄・保利與兵衛)
生没:文政九年~明治十三年(一八二六~一八八○)
業種:写真館
住所:元治元年三月~明治十三年(一八六四~一八八○)京都寺町通仏光寺内
慶応年間~?(c一八六五~?)出店 京都祇園町切場
経歴:京都境町で生まれ、幼名を松次郎といった。大坂屋と号し丸太町で硝子製造業を始めた。模造砂金石を硝子で製造する事を発明し巨利を得た。この頃に與兵衛と改名する。文久二年頃(c一八六二)辻 禮輔、明石博高、亀谷徳次郎に写真化学を学び、文久三年(一八六三)紙写真法を研究して紙焼きに成功した。元治元年三月(一八六四)寺町通りで二階建てガラス屋根の写真館を創建し、慶応年間には祇園町に支店を設けた。
またその頃「西洋写真薬法書」の稿本がある。仁和寺宮還俗を撮影の時「月の家真澄」の名を拝受し舎密局に勤務した。明治十三年(一八八○)には京都府博覧会の審査員を務めた。没後は長男に継承された。明治元年(一八六八)の戊辰戦争の際に撮影された湿板写真を確認した。桐箱の蓋に「西洋伝方 写真処 出店祇園町切場 保利與平衛皇都寺町通仏光寺内」と記されていた。
(井桜直美&トーリン・ボイド共著『セピア色の肖像』(日本カメラ博物館監修、朝日ソノラマ、二○○○年)より)


鵜飼玉川「写真塚」

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5月16日の土曜日、午後1時に、谷中にある鵜飼玉川のお墓に行って、「写真塚」の再発掘作業に最後まで立ち会ってきた。
鵜飼玉川の曾孫・鵜飼幸雄氏、小沢健志先生、金子先生、三井さん、井桜さん、ボイドさんなど、20名くらいの人が立ち会った。
しかしながら、・・・
写真塚は五十年ぶりに再発掘されたものの、なぜか小さなガラスの破片一つしか見つからない。
(がっくし、・・・)
ということで夕方、現地解散となりました。
帰宅後に僕も前回の発掘について調べてみたが、前回の写真塚の発掘(昭和31年9月30日)では最初に写真塚の下から、つぶれた容器(カメ)に入ったガラス写真が土中に散乱した状態で出てきたそうだ。
今回はとにかく何も見つからなかったのだから、何となくだが前回、埋め戻す前に、誰かがガラス写真及び断片なども全て持ち出しているのではないかと思った。
うーん、・・・変ですよねぇ、・・・
そこで前回の写真塚の発掘(昭和31年9月30日)について古写真コレクターで古写真研究家の石黒敬章さんにお聞きした。
石黒敬章さんがお父上の石黒敬七氏より聞いた話だと、・写真塚が沈下してカメが割れたため、写真は土中で分散していたが、竹べラを使って丁寧に発掘された。
 ・小さいガラス写真が30~40枚現れたが、空気に触れると瞬く間に亀裂を生じ、画像を留めたものは数枚だった。
 ・発掘直後に複写した写真を敬七氏がサン写真新聞社から貰った。
ということだった。
その時の複写写真(「赤いセーターの少女」「男性像」)は、石黒敬章さんが所蔵している。

前回の発掘の主な立会人は以下のとおり、
鵜飼玉川の孫・鵜飼幸三
写真大学学長・鎌田弥寿治
同大学教授・宮本五郎
日本写真学会前会長・福島信之助
千葉大学教授・笹井明
写真史家・梅本貞雄
立正大学教授・枡田一二
小西六・秋山青磁
石黒敬七
発掘されたガラス写真の一部はご子孫の鵜飼家にあるが、その他のものはいったいどこにいってしまったのだろうか?謎である。


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