Archive for 3月, 2009

横浜写真 「骨董屋」

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通称「横浜写真」といわれる外国人向けの日本の古写真にはご覧のような日本の風俗を撮影して紹介している古写真も数多く見ることが出来る。
この写真は骨董店の店主が店の倉に客を案内して、商品の説明をしている様子といったところだろうか。
大判の彩色された古写真なので細部までよく写っており、当時の様子がよく観てわかる。
こういう写真は普通はアルバム仕立てになって販売されていたようだが、現在はこういう古写真アルバムだと高額になってしまい個人的に購入するのは難しいので、こういう古写真を売りたい方もアルバムの古写真を一枚一枚バラバラにして切り離して売るよう
だ。
こういう写真は本当に当時の店先を撮影しているものもあるが、スタジオ(写場)でモデルも使って再現している場合もあるので要注意だ。
まぁ、貧乏な僕の方はこういう「横浜写真」は研究テーマにはしていないので、個人的にはただ見て楽しむことにしている。


長崎 中島川の風景

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今回、ご紹介するのは、幕末頃に上野彦馬が撮影したと思われる長崎の中島川の風景写真だ。
中島川石橋群についてネットで調べてみると、「寛永11年(1634)架設の眼鏡橋以降、17世紀末までに中島川と直交する道路筋のとんどには石橋が架けられたが、これは一説に寺町の寺院への参道といわれている。
架けられた橋の数は最多時で17~18基。
幾度となく崩流滅失し、石橋によって再架されてきたが、昭和57年(1982)7月23日の長崎大水害でその多くを失った。
そのうち眼鏡橋、桃渓橋(ももたにばし)、袋橋の3橋は往時の石橋の姿をとどめた形で復旧されたということのようだ。
長崎市内の中島川沿いの水辺の景観はすっかり変わってしまったが、それでもこの石橋のおかげで昔の風情を残してくれている。
そしてそれは長崎県、長崎市民が持つ文化意識の高さかもしれない。
長崎は先の大戦でも原爆という大被害にあって壊滅したにもかかわらず、郷土を代表する水辺の景観が素晴らしい。
最近では出島の復元計画も進んでいると聞いた。
田舎町に高速道路ができるよりも、これからは交通の不便さが売りになるような気もする。
もっとも現代の長崎は新幹線計画も進み始めて、再び日本の代表都市としての地位も復活させようとしているようだ。
ほんとにいい町ですよね。


最後の新撰組隊長 相馬主計

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ご覧の最後の新撰組隊長・相馬主計の写真は、いろいろな本で紹介されているが、元々は何の写真なのか、僕にはよくわからなかった。
ところがこれも熊谷の茂呂さんと知り合いになったことで、『旧幕府』に掲載されていた名刺判写真であることがわかった。
しかも『旧幕府』に掲載された際に他の名刺判写真といっしょに掲載されたため、斜めに掲載されていた。
この写真を人物が正対する様に修整し、さらに写真の周囲を少しトリミングしたのが、この写真だ。
この相馬主計の名刺判写真の行方は尾佐竹猛先生のようだが、残念ながら尾佐竹先生の歴史資料、古写真は疎開先が先の大戦で空襲にあったため全て消失してしまった。
もっともこういう名刺判写真があったということは、今後も他に見つかる可能性は高いと僕は考えている。
何か他にも情報をお持ちの方はぜひご教授くださいませ。
よろしくお願い申し上げます。
相馬主計については以下をご覧ください。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E4%B8%BB%E8%A8%88


続・近藤勇の写真について(その七)

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日野で近藤勇の写真について講演した際に来られていた熊谷の茂呂さんに添付の写真のことを教えていただいた。
この写真も近藤勇の写真と同じ敷物の写真だ。
この古写真が面白いのは同じ撮影状況で木村摂津守の写真もあり、こちらには木村摂津守の日記に以下の記載があることから、
慶応三年一月二十五日 晴 例刻登営
一、 本日出掛。市尹大久保氏庭に立寄写真。
この日会者 水野伊勢守忠全、小出播磨兵部奉行、八木但馬守補職銃隊奉行及び余。御使番三四名等也。


同《二月》十日 去月二十五日之写真紙十枚出来。好写可喜。
同二十二日 雨 例刻登営 
一、写真料千疋。水野勢州へ頼み遣す。《金千疋は二両二分》
この新たな古写真の人物が、水野伊勢守忠全、小出播磨守、八木但馬守補職の内の一人ということが考えられるのである。
家紋ははっきりと写ってはいないが、水野伊勢守忠全の家紋である丸沢潟のように思える。
水野伊勢守忠全は前年の、慶応二年六月御進発供奉御役人付に御書院御番頭

 千五百石 水野伊勢守       四千石  八木但馬守
歩兵御奉行  千七百石 小出播磨守
と記載されているので、その可能性は極めて高い。
こうなると残りの二人、小出播磨守、八木但馬守補職の古写真もあるのでは?と考えるのは自然なことだろう。
というわけで、最近はまた週末にこの二人の菩提寺に行ってきた。
社務所で事情を説明してご子孫に連絡したい旨、伝言を残してきたので、今はその吉報を待つ身である。


新撰組 田村銀之助

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元新撰組の隊士で、局長近藤勇や副長土方歳三附属の小姓をしていた田村銀之助という人物の写真が残っている。
この人はまだ幼い少年隊士だったにもかかわらず、函館戦争まで参加している。
最近僕はこういった元新撰組の隊士たちの古写真をよく見ているのだが、特にこの田村銀之助の古写真の背後に写っている欄干が気になっている。
この欄干が写った古写真は他にも見たことがあるからだ。
しかしながら、この写真館がどこの誰の写真館なのか?判らないのである。
見た感じだと東京の写真館のように思えるのだが、この田村銀之助は京都、大坂にもいたことがあるようだし、東京、函館、横浜も考えられる。
まぁ、何となくだが函館戦争で降服し、後に許されて新政府に出仕した頃に、東京の写真館で撮影された写真と今はしておきたい。
どなたかご教授いただけたら幸いです。
田村銀之助については下記をご覧ください。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%9D%91%E9%8A%80%E4%B9%8B%E5%8A%A9


京都見廻組頭 岩田織部之正通俊

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幕末、京都の治安を守る組織としては新撰組が有名だが、他にも京都見廻組があった。
この京都見廻組は坂本龍馬、中岡慎太郎を近江屋で暗殺したことでも有名ではあるが、その詳細は近年に出版された菊池明著『京都見廻組史録』(新人物往来社、2005年)や、黒金ヒロシ著『歴画 京都見廻組』(PHP研究所、2003年)で、一般にもようやく少しその全容が判るようになった。
さて、先日、僕は日野の高幡不動にて、近藤勇と土方歳三の古写真についての講演をしたのだが、その講演後、茂呂司氏よりいくつか貴重な情報をご教授いただいた。
今回はそれをご紹介したい。
この古写真の人物は、万代修氏の調査による京都見廻組頭・岩田織部之正通俊という人物ということだそうです。
池袋にお住まいのご子孫・松平淳氏のところにガラス原版もあるとのこと。
この写真については写真原版、「写真由来記」などの記述によれば、どうやら慶応三年に撮影された写真だそうです。
岩田織部之正通俊の京都見廻組頭の期間は、慶応二年五月任官から同年十二月までだそうです。
まぁ、これで近藤勇の内田九一撮影説も完全に否定できました。
それというのも内田九一は慶応二年秋に江戸へ移動しているからである。
さらにこの写真の人物は『写真で見る幕末・明治』(世界文化社)p256に掲載されているが、その下の「中将」という写真キャプションの写真も同一人物の写真だと僕は思う。

京都見廻組
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
京都見廻組は、江戸時代末期(幕末期)に幕臣によって結成された、京都治安維持の組織。
元治元年(1864年)、江戸幕府は京都守護職で会津藩主の松平容保の配下として、蒔田廣孝と松平康正を京都見廻役に任命した。
そしてその配下として旗本、御家人を組織して京都見廻組が創設された。
詰所は二条城の側に置かれたという。
それぞれの見廻役が配下の組を持ち、それぞれ見廻役の官職名から相模守組(蒔田廣孝)と出雲守組(松平康正)と呼ばれ、各200名ほどの組員を指揮した。
見廻組は新撰組と共に一般犯罪者ではなく、反幕府勢力の取り締まりを専門に行った。
見廻組は主に御所、二条城周辺といった官庁街を管轄とし、新撰組は祇園や三条といった町人町、歓楽街を管轄とした。
そのためか、新撰組と共同戦線をとったことはあまり無かったらしい。
相模組与頭の佐々木只三郎、渡辺吉太郎、高橋安二郎、桂早之助、土肥仲蔵、桜井大三郎、今井信郎らが坂本龍馬を暗殺したとされる(近江屋事件)。

関連項目
前島密…京都見廻組前島錠次郎の没後、その跡目を継いで開成所教授となる。


東京 向島の桜

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昨年の春は高校時代の同級生で、その当時のガールフレンドだった大原さん(現・古賀
夫人)を案内して、向島の桜を見て歩いた。
イカ焼きやソース焼きソバの臭いはいただけないが、大勢の花見客が隅田川沿いの堤防
脇の遊歩道を歩いていた。
大川(隅田川)には花見客を乗せた屋形船が何艘も浮かんでいた。
江戸の名残はすっかりどこかへ消えうせたように思えたが、長命寺の桜餅は今でもがん
ばっている。
芥川龍之介の「本所両国」の中に、
「僕等はその時にどこへ行つたのか、兎に角伯母だけは長命寺の桜餅を一籠膝にしてゐ
た。
すると男女の客が二人、僕等の顔を尻目にかけながら、「何かひますね」「うん、糞臭
いな」などと話しはじめた。
長命寺の桜餅を糞臭いとは、-- 僕は未だに生意気にもこの二人を田舎者めと軽蔑した
ことを覚えてゐる。
長命寺にも震災以来一度も足を入れたことはない。
それから長命寺の桜餅は、-- 勿論今でも昔のやうに評判の善いことは確かである。
しかし餡や皮にあつた野趣だけはいつか失はれてしまつた。」と書かれている。
むかしは桜餅といえば「長命寺」で、塩漬けの桜葉三枚で包まれた餡の甘さと塩漬けの
桜葉のバランスは最高だ。
幕末の江戸っ子、勝海舟も食したにちがいない。
もちろん言問団子も美味しいです。
今年の春も向島の桜を眺めて、言問団子と長命寺の桜餅は両方食べることにしたい。
できれば美人を連れて行きたいというところだが、こればかりは神様にお願いしてみる
しかないようだ。


再検証 函館戦争

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「幕府脱走軍兵士」として知られる古写真  

以前、僕は「幕府脱走軍兵士」として知られる集合写真について以下のようにここで書
いた。
「さて、「幕府脱走軍兵士」として知られる集合写真について、僕の見解、仮説をまと
めてみると、左から、不明(瀧川充太郎か)、川村録四郎、甲賀源吾、人見勝太郎、
不明(大鳥圭介か)ということになる。
もちろん、これで確実に、完全に人物を特定できたわけではない。
特に両側の二人に人物については今後も検証が必要となる。
こうして一枚の古写真を僕は毎日眺めては、他の古写真を探して比較したり、参考に
なりそうな書籍を見つけて読んでいる。
そのため、膨大な時間と手間、お金もかけることもある。
しかし、こういう謎解きにも似た時間を過ごすのが楽しいのだ。
この集合写真でいえば撮影した写真師が田本研三なのか木津幸吉なのかを特定するに
は、まだ何年もかかるような気がする。
今回はこの集合写真もまた僕の宿題の一つとなってしまったが、いつの日にかまた別の
古写真を眺めている時にでも、ひょっこりと思い出して解決するのではないかと期待し
ている。
また、こういう調査の過程で調べた参考書籍が別の古写真の解明に役に立つことも多
い。」
その後、縁あって土方歳三の写真を調べている過程で、この「幕府脱走軍兵士」として
知られる集合写真について、新たに気がついたことがある。
まず、新撰組の研究者であさくらゆうさんからご教授いただき、陸海軍裁判頭取・竹中
重固はこの集合写真に写っていないことが確認できた。
竹中重固の肖像写真が見つかったので確認できたのである。
また、函館戦争当時に写された仏語伝習隊の田島応親が見つかった。
この写真を見ると、僕が「不明(瀧川充太郎か)」とした人物が、この田島応親である
ことが判明した。
ここでお詫びして訂正いたしたい。
ごめんなさい。(ぺこり)
さらに中央の人物は、当初僕は「甲賀源吾」と考えていたが、これも函館戦争当時に写
された別の人物写真から、「相馬主計」だと思うようになった。
つまり、今のところ僕の仮説でいえば、「幕府脱走軍兵士」として知られる集合写真の
人物たちは、左から、田島応親、川村録四郎、相馬主計、人見勝太郎、不明ということ
になる。
田島応親については下記をご覧ください。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%B3%B6%E5%BF%9C%E8%A6%AA