Archive for 1月, 2009

古写真調査・探索の旅(関西編) その一

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今年も京都大阪に古写真についての情報収集の旅をした。
今回の僕のメインテーマは四つあった。
その一つは、大阪府堺市南区茶山台1-9-1にある大型児童館ビッグバン所蔵の近藤勇
の名刺判写真現物を確認すること。またこの写真の入手事情を調べておくこと。
二つ目は慶応年間に京都の堀與兵衛の祇園支店で撮影された、新撰組隊士・谷万太郎
の写真現物の行方、現在の所蔵者について調査すること。
三つ目は京都の多田敏捷先生にお会いしていろいろと教えを請い、先生が見つけた京
都の堀與兵衛のガラス湿版写真、名刺判写真などを拝見させて貰う事。
四つ目は京都、大阪、名古屋に居る知人、友人と会い、行きつけの店で楽しく飲食を
共にすることだった。
もちろんその間に幕末の名所旧跡や歴史博物館などを見学することも入っている。
僕はこんなよくばりな、ハードスケジュールの旅をいつもしている。
まずは泉北ニュウータウンにある大型児童館ビッグバンの稲葉さんには休館日だとい
うのに、僕のために特別に同館所蔵の近藤勇の名刺判写真や、その他の明治期の名刺
判写真をいろいろと見せていただきありがとうございました。
学芸員の稲葉さんには非常に丁寧な対応をして貰い、またそのかわいい声もよかった
です。
これらの写真のほとんどは京都の多田敏捷先生が同館に納めたものだが、神戸、大
阪、京都の明治期の写真師、写真館の貴重な古写真やその他地方の写真館の珍しい古
写真も多くあり、僕は勉強にもなったが、大変面白かった。
同館では特別展示の際にしか近藤勇の名刺判写真現物は展示されていないそうです
が、見れる時にはぜひ観に行っていただきたい。
同じ写真は京都の霊山歴史館にも拡大されてパネル展示されてはいるが、写真台紙の
形状などはこれではわからない。
さて、この近藤勇の名刺判写真は多田敏捷先生のお話しだと、京都の同業者(古物
商)がどこからか見つけてきた写真だが、残念なことに元々の所蔵者についての情報
は不明とのことだった。
京都に行った初日には多田敏捷先生にお会いしていろいろとお話しを伺い、最近入手
された古写真もたくさん見せていただいた。
内田九一の写真や丸木利陽の撮影した青木周蔵の写真は特によかったです。
特に僕の研究テーマである京都の写真師・堀與兵衛のガラス湿版写真と名刺判写真に
ついては譲っていただいた。
また詳細はここでは書けないが「京都土佐藩探索方文書」(仮称)の内容は今後の幕
末史の研究を一変させるようなすごい内容の資料だったし、多田敏捷先生から教えて
いただいた古写真情報もすごい内容のお話しだった。


続・近藤勇の写真について(その六)

新撰組研究の第一人者である釣洋一先生を通じて、ようやく永倉新八が持っていた近藤
勇と土方歳三の複写写真の形態が判明した。
これは僕の予想通りで別の台紙に、鶏卵紙の部分を並べて貼り付けたものであった。
向かって左が腕を下ろしたポーズの近藤勇の写真で、右が膝から上の土方歳三の写真で
ある。
永倉新八は横浜に居た元新撰組隊士・川村三郎(近藤三郎)から、この二枚の写真を複
写で譲って貰っている。
複写の作業自体は横浜の写真館で行われた。
さて、そういったことも含めて、近藤勇の写真について話して欲しいというので、釣洋
一先生が経営されている居酒屋「春廼舎」で、二回プチ講演を行った。
http://www.geocities.jp/haruno_ya/map.html
特に二回目は満員という大盛況であった。
当日来られた、日野新選組同好会名誉局長で、「新選組を語る会」の事務局幹事をされ
ている峯岸弘行さんに頼まれて、来年の2月14日(土)に改めて高幡不動にて皆さんに近
藤勇の写真について話すこととなった。
2009年2月14日(土)午後、会場、時間、参加費(¥1000予定)などについての詳細につ
いては、下記にメールでお問い合わせ、参加お申し込みをしてくださいませ。
〒191-0031 
東京都日野市高幡1-1
みねぎし弘行
tel 042-591-8819
Eメール hiroyuki@minegishi21.com


土方歳三写真の謎 その六

さて、これまでの記述で土方歳三の写真についてはほぼ解明出来たと思うが、実はそ
れでも謎は残っている。
土方歳三の写真は洋装軍服姿の肖像写真で、①椅子に腰かけて足元の全身まで写って
いる写真(土方家所蔵写真、平拙三家旧蔵写真)と②椅子に腰かけて膝より上が写っ
ている写真(佐藤彦五郎家所蔵写真、平拙三家旧蔵写真、小島資料館所蔵写真)の二
種類が現存するが、どういう過程を経て複写、伝来されてきたかである。
実は僕は土方歳三の使者市村鉄之助は、この二種類の写真を持ってきたのではないか
と考えている。
それを佐藤彦五郎家を通じて、土方家へ渡したのではないだろうか。
もちろんその過程で後年さらに複写した写真を親しい親族、遠縁、友人などに渡した
のである。
平拙三家旧蔵写真については、写真が貼られた写真台紙表の下部に左から右に
「PHOTOGRAPHER  GK  JAPAN ARTIST」とデザインされた意匠が印刷されているが、こ
の真ん中にある意匠の「GK」については、東京下谷で開業していた木津剛吉のことで
はないかと僕は推察している。
木津剛吉のイニシャルが「GK」で、他に写真師が考えられないからである。
まぁ、もっとも時代が下がって別のイニシャルが「GK」の写真館で複写してもらった
ものかもしれないので、あくまでこれは僕の想像ということになる。
東京日野・多摩地区にイニシャルが「GK」の写真館があったという情報をご存知の方
がおられればぜひご教授いただきたい。
よろしくお願いいたします。(ぺこり)
さて、今回も連続コラムとなり長いコラムとなってしまったが、最後までおつき合い
いただいた読者の方々には感謝いたします。(ぺこり2)
後日、きちんと北海道函館には現地調査に行きますので、今回は参考資料を中心とし
た論述でお許しくださいませ。


土方歳三写真の謎 その五

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前回までの記述で土方歳三の写真は函館で、明治元年十二月十五日から明治二年四月
九日の間に撮影されたとご理解いただけたと思う。
今回は誰が撮影したかという問題について考えてみたい。
幕末の初期、函館の写真師ということならば、安政五年九月に来日した初代駐日ロシ
ア領事ゴシケヴィッチがの趣味で行っていた写真術がその技術も高く、また領事に随
行してきた医師アルブレヒトと交代して、文久三年に着任してきたゼレンスキーが有
名ではあるが、ゴシケヴィッチは慶応元年に帰国しており、ゼレンスキーも慶応二年
に帰国していることから、この二人は土方歳三を撮影することはできない。
次にこの二人から写真術の伝授を受けた横山松三郎、木津幸吉(剛吉)と田本研造が
最有力候補となる。
横山松三郎、木津幸吉(剛吉)、田本研造の略歴については下記のサイトをご参照し
ていただきたい。
さてこれらの三人が土方歳三を撮影した可能性が高いことになるのだが、木津幸吉
(剛吉)は明治二年五月に函館戦争が終結した後、公家の清水谷公考と共に東京へ転
住したといわれている。
そして明治九年十二月出版の「東京写真見立競」では「年寄 下谷 木津剛吉」とし
て登場している。
このことは後に説明するがちょっとご記憶願いたい。
また、明治二年に上京する際に木津は撮影機材やネガなどを全て田本研造に譲り渡し
て上京したといわれている。
従って市立函館図書館所蔵「田本研造旧蔵写真アルバム」に旧幕府軍の幹部たちの写
真が掲載されているとはいえ、このことだけで田本研造の撮影だと断定するのはまだ
難しいのである。
横山松三郎についても考えてみよう。
佐藤清一著『函館文化発見企画1 函館写真のはじまり』によれば、田本が営業中の
明治三十六年十二月十五日発行『北海道立志編第二巻』の田本研造の項に、
「横山松三郎なる者ありて少しく写真術を会得せしを以て之に就て学び
自研自究先づ専ら写真器械製造に工夫を注ぎ漸く玉鏡及び箱を製造するを得たり
業末だ央ならざるに幕府の脱走士榎本釜次郎の部下氏の前を過ぎりて写真器械を製造
するを見切りに撮影を求む」
とある。
つまり、ここでは榎本釜次郎の部下たちが田本研造に撮影を依頼していることがわか
る。
横山松三郎は撮影していないのだ。
もっとも横山松三郎は山口才一郎が『旧幕府』(第参巻第七号)に掲載された下岡蓮
杖の自伝「写真事歴」を引用すれば、「慶応四年撮影ノ業ヲ江戸両国元坊ニ開ク 次
テ下谷池之端ニ移転セリ」とあることから、すでに函館に居なかったのだろう。
また、田本の葬儀の際に、写真師・紺野松次郎の弔辞に、
「五稜郭の役あり徳川の脱士等先生の写真の技を弄ぶを見て珍として争いて其門を訪
ふ榎本泉州以下富年お小照今日に散見するもの皆先生の神技の賜なり」
と、紺野松次郎は旧幕府脱走軍の幹部たちの写真撮影は、田本研造が撮影したことで
あると語っている。
さらに田本研造の履歴についても、本人が存命で活躍中の明治二十一年二月十九日付
函館新聞に、
「(前略)其後元治慶応の頃函館へ下り横山木津両氏に就きて写真の術を修め大いに
自得せる所あり
明治元年氏自ら写真鏡を工夫製造し薬剤を備へ写術を試みたり
明治二年は恰も旧幕脱士の入込みたる時なりしば諸士頻りに氏の許に来り写影を求め
脱士諸士の像を写つしたるもの頗る多かりしといふ(後略)」
とあることから、状況証拠ながら木津幸吉(剛吉)が撮影した可能性は薄く、田本研
造が撮影した可能性が非常に高いことがこのことからもわかる。
まとめると現時点での情報を考えれば、土方歳三の写真は函館で、明治元年十二月十
五日から明治二年四月九日の間に田本研造が撮影したのである。
函館のどこで撮影したについては、この当時、田本研造は現在の元町東本願寺函館別
院(英国人貿易商フレタの家があった所で、後の「叶同館(協同館)」)の近くの露
天写場で開業していたことから、おそらくこの場所で撮影されたものと考えられる。
田本研造は後に近くの会所町に移り本格的な写真館(写場)を開業するが、この場所
ではない。
蛇足ながら、この田本写真館は函館の大火で焼失、同所での再建を繰り返しているこ
とから、オリジナルの土方歳三の写真(湿板ガラス写真)は、焼失したものと考えら
れる。
【参考資料】
『旧幕府』(第参巻第七号)
佐藤清一著『函館文化発見企画1 函館写真のはじまり』(五稜郭タワー株式会社、
平成十一年)


土方歳三写真の謎 その四

箱館戦争当時の人見勝太郎 函館戦争当時の人見勝太郎

今回は別のアプローチから土方歳三写真について考えてみたい。
それは土方歳三が腰掛けている椅子についてだ。
この椅子はかなり特徴的な椅子であることがわかる。
土方歳三の椅子に腰かけて足元の全身まで写っている写真(土方家所蔵写真、平拙三
家旧蔵写真)で見ると、椅子の前の足が猫足で、前方に反っている。
これは他の古写真にもよくあるタイプなのだが、椅子の前方と後方の足の間がクロス
しており、これは以前にこのコラムで紹介した函館戦争当時の幹部たち(前列左から
荒井郁之助、榎本武揚、後列左から小杉雅之進、榎本対馬、林菫三郎、松岡盤吉)の
集合写真(石黒敬章氏所蔵)に写っている荒井郁之助が腰掛けている椅子と全く同じ
椅子なのである。
さらに他にもないかと探してみると、函館新選組所属の桑名藩士官(左に谷口四郎兵
衛守成、右に角谷糺)が写っている写真で、右の角谷糺が腰掛けている椅子が同じ椅
子なのもわかる。
特に二枚目の写真が重要だと僕は考えている。
というのもこの写真に写っている谷口四郎兵衛と角谷糺は、戊辰戦争の仙台において
新撰組に加わり、旧幕府榎本艦隊の大江丸に乗船して函館まで行った人物たちである
からである。
この時、旧幕府榎本艦隊が仙台から蝦夷地に向かって出帆したのは慶応四年十月十二
日、新撰組が蝦夷地の鷲の木浜に上陸したのは同年十月二十日、すぐに五稜郭まで進
撃を開始して新政府軍と戦い、同年十月二十六日に新撰組は五稜郭に入城している。
さらに同年十月二十八日、土方歳三は軍勢を率いて松前城攻略に向かっている。
新撰組が函館市中の取締りを命じられて函館本陣に入るのが、同年十月三十日である
から、この二枚目の写真はこの十月三十日以降に函館で撮影された可能性が極めて高
いことがこれで判る。
さらに他に写真がないかと探してみると、土方歳三の椅子に腰かけて膝より上が写っ
ている写真(佐藤彦五郎家所蔵写真、平拙三家旧蔵写真、小島資料館所蔵写真)で見
ると、土方の両足の間に写る椅子の台の枠に傷があり、この傷と全く同じ傷のある椅
子が写っている写真に、市立函館図書館所蔵「田本研造旧蔵写真アルバム」掲載され
ている榎本対馬の写真があることが判った。
また、人見勝太郎が腰掛けている椅子にも同じ傷があるように見えるが、これらの写
真についてはまだ僕も現物の写真を直に確認していないため、ここではまだ断定は避
けたい。
この人見勝太郎の写真は他にも市立函館博物館五稜郭分館所蔵の大森停車場野中写真
館複写の写真がある。
この写真には写真台紙をさらに二つ折りの別紙に張り込んであり、この別紙の表紙裏
には「慶応四年函館戦争之時 魯国宣教司ニコライ館ニ於テ撮影ス 遊撃隊長 人見
勝太郎 齢二十五歳」と墨書きが書かれている。
これは人見勝太郎本人によるものとされているが、その真偽は不明。
市立函館図書館所蔵「田本研造旧蔵写真アルバム」には他にも榎本武揚、荒井郁之
助、川村録四郎の写真がある。
その他にも楕円に縁取りされた写真として、土方歳三、松岡盤吉、大川正次郎、山内
六三郎、滝川充太郎の写真があるが、こちらには椅子が全く写っていないため参考に
ならない。
特に市立函館博物館五稜郭分館にも、この榎本武揚の写真と同じタイプの複写写真が
あり、この写真の写真台紙裏には「獏軍大総裁 榎本将軍肖像 三十三歳 明治元年
十二月会所町田本 写真師方ニ於テ」と墨書きで書かれている。
しかし、この墨書きは函館戦争の研究家・片上楽天が書いたもので、田本研造自身が
書いたものではない。
また、土方歳三の写真に写る椅子は他にもあるもので、特に意味を持たないと思う方
もいるだろうが、僕が知る限り他の古写真でこの椅子と全く同じデザインの椅子は前
記の古写真を除けば他にはない。
横浜、江戸(東京)で撮影された古写真には一枚もないのである。
さて、以上のことから、傍証も含めて、土方歳三の写真が函館で撮影された可能性が
極めて高いということが、ご理解いただけたであろうか。
現時点での古写真情報でいえば、土方歳三の写真は函館で撮影されたと100%断言
してもいいと僕は考えている。
また、その撮影時期は明治元年十二月十五日から翌明治二年四月十五日の間というこ
とになる。
さらに撮影時期を絞り込めば、新政府軍が乙部に上陸して、土方歳三が二股口守備の
ために出陣するのが、明治二年四月九日のことであるから、明治元年十二月十五日か
ら明治二年四月九日の間であろう。
特にその間では土方歳三が松前から五稜郭に凱旋するのが明治元年十二月十五日から
五稜郭において二度目の閣僚選出の入札(選挙)が行われた明治元年十二月二十八日
の間が可能性が高いような気がする。
【参考資料】
新人物往来社編『続新選組史料集』(新人物往来社、2007年)
伊東成郎、桑嶋洋一他著『新選組研究最前線(下)』(新人物往来社、1997年)
佐藤清一著『函館文化発見企画1 函館写真のはじまり』(五稜郭タワー株式会社、
平成十一年)