Archive for 11月, 2008

続・近藤勇の写真について (その五)

前回までの最新調査でもう元新撰組幹部であった永倉新八が川村三郎より明治二十一
年に譲り受けた複写写真については、追いかけなくともいいだろうと考えていたのだ
が、別の用事で調べ物を図書館fでしていたら、偶然にそれが判明した。
こういうことは不思議なことに別の調べ物をしているとよくある。
釣洋一著『新選組写真全集』(新人物往来社、1997年)のp215に全体的では
ないが掲載されていた。
土方歳三の写真については川村三郎が複写したものと全く同じで、近藤勇の写真と
いっしょに二枚並べて別の台紙に貼られていた。
(台紙の左に近藤勇の写真、右に土方歳三の写真)
そして、この台紙の裏には永倉新八の裏書きとして正確には以下の内容が書かれてい
た。
大正二年五月二十二日 
東京市本所区番場町
四丁目七番地 
        山田音羽 
     芸名綱枝太夫 
近藤勇写真見ルハ泪ヲ
流シ同人写真拝借イタシ度
申シ貸シ与フ両人複写イタシ
送ル
右 土方歳三義豊 
左 近藤勇昌之
新撰組副長助勤 
      永倉新八戴之
      改 杉村義衛治備
大正二年六月十日書
さて、肝心の近藤勇の写真の方は、もちろん両腕を下ろしたポーズの写真で、複写し
た際にちょうど半身になるように寄って複写した写真であった。
複写を頼んだ写真館については写真台紙の一部が『新選組写真全集』に掲載されてい
たが、詳細はまだ不明だ。
ここまできたらせっかくなので、今度、釣洋一氏にお会いして尋ねてみようと考えて
いる。
近藤勇の京都時代の娘で、山田音羽が永倉新八から近藤勇の写真を借りて複写した写
真については、このことから、やはり両腕を下ろしたポーズの写真で、複写した際に
ちょうど半身になるように寄って複写した写真であることが推察できる。
ということでこれについてはこれ以上の追求はお終いにしたい。
やれやれ。


手彩色絵葉書 横浜 馬車道通り (明治期)

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僕自身は手彩色絵葉書のコレクターでも、研究者でもないので、関心も興味も余りな
いのだが、たまに古書店や、骨董市でこういう明治の風景を見つけることがある。
するとなぜか懐かしい気分になるのだが、よく考えてみると僕は昭和生まれなので、
当たり前だがこういう風景を原体験として見たことはない。亡くなった父母も昭和一
桁生まれだから、聞き知った原風景でもない。
それでもこういう手彩色絵葉書を眺めていると、気持ちが優しくなれるから、僕は大
好きだ。
今回、ご覧の横浜馬車道通りの手彩色絵葉書をご紹介したのは、先日の近藤勇の写真
の調査で横浜に行ったせいだ。
幕末明治の初年からこの横浜馬車道通りには次々と写真館が開業して、居留地の外国
人や裕福な日本人を撮影し、またこれらの写真館は日本の風景写真をりっぱな写真ア
ルバムに仕上げて、販売、輸出していた。
日本の初期の主要輸出品としては絹やお茶が有名だが、写真アルバムもそうであった
ことは意外と知られてはいない。
これらの写真アルバムの表紙には漆塗りや絵画も描かれて、まさに美術品のようなも
のも多い。
そういった写真アルバムの多くが現在、横浜開港資料館などの資料館、博物館、大学
図書館に買い戻されて所蔵されている。
そういう写真も明治になって時代が下がるとこういう手彩色絵葉書となって、一般に
も入手しやすい形に姿を変えてゆく。
手彩色絵葉書の研究家によれば、こういう手彩色絵葉書には珍しい古写真も多くある
そうだが、不勉強な僕にはよくわからない。
ただ、何となく清清しい気分になれる風景写真が多いような気がする。
六本木や上野の美術館もピカソやゴーギャンだけでなく、こういう古写真や手彩色絵
葉書の現物展示を展覧会として企画して欲しいと思う。
関係者の皆さん、よろしくお願いいたしまーす。(ぺこり)


続・近藤勇の写真について (その四)

さて、今回は以前にも書いた以下の、『それ以外のまだ現物が確認されていない近藤
勇の写真』についての最新調査報告をしよう。
①元新撰組隊士の久米部正親、後の猪野忠敬が所蔵していた写真。
②元新撰組隊士の近藤芳助こと当時の川村三郎が所蔵していた写真。(現在、川村三
郎のご子孫・浅田康夫氏所蔵)
③元新撰組幹部であった永倉新八が川村三郎より明治二十一年に譲り受けた複写写
真。
この写真には永倉の裏書きとして以下の内容が書かれている。
「大正二年五月二十二日 東京市本所区番場町四丁目七番地 山田音羽 綱枝太夫 
近藤勇写真見るに泪を流し、同人写真拝借いたしたくと申し、貸し与ふ。両人複写い
たし送る。右 土方歳三義豊 左 近藤勇昌宜 新撰組副長助勤 永倉新八戴之 改
 杉村義衛治備 大正二年六月十日」
この近藤勇の写真は、「右 土方歳三義豊 左 近藤勇昌宜」というのは土方歳三の
写真と近藤勇の写真が台紙に並べて貼られていたらしい。
④近藤勇の京都時代の娘で、山田音羽が永倉新八から近藤勇の写真を借りて複写した写真。
⑤自由党員で、自由民権運動で活躍した神奈川県議の吉野泰三(近藤勇の甥で娘婿の近藤勇五郎の親族)が所蔵していた近藤勇の写真。
最近ようやく元新撰組隊士の近藤芳助こと川村三郎のご子孫である浅田康夫氏の連絡
先が判って、先日、横浜のご自宅にお邪魔してお会いすることが出来た。
そして川村三郎が猪野忠敬が借りてきた土方歳三と近藤勇の写真を複写した写真を確
認することが出来た。
近藤勇の写真については意外なことに両腕を下ろしたポーズの写真だった。
つまり、福井市郷土歴史博物館所蔵の写真で「近藤勇 新撰組」と写真裏に墨書きが
ある写真と、永見徳太郎編纂「珍しい寫真」(昭和七年、粹古堂)掲載されている
「新撰組隊長 近藤勇」の写真と同じタイプの写真であった。
これで永倉新八が川村三郎より明治二十一年に譲り受けた複写写真と京都時代の娘
で、山田音羽が永倉新八から写真を借りて複写した写真も同じタイプの写真だったこ
とが確認できた。
また、猪野忠敬がこれらの写真をどこから借りてきたかというと、逸話として元は松
本良順が持っていた写真を何度もお願いして借りてきたということがわかった。
そして、吉野泰三が所蔵していた近藤勇の写真も、川村三郎が議員をしていたことか
ら、同じ神奈川県の議員をしていた吉野泰三のことを考えると、同じタイプの写真で
あることが推察される。
さらに、他にも猪野忠敬が川村三郎に話した逸話があって、
・近藤勇は慶応二年に京都で撮影したということ。
・その時は近藤勇は縁台に座って外で撮影したこと。
・「大与」という写真館で撮影したこと。
が判った。
この「大与」という写真館は、京都の寺町と祇園支店で営業していた堀與兵衛の写真
館だ。
ということで僕の予想通り、近藤勇の写真は慶応二年に京都の堀與兵衛の写真館で撮
影されたことがこれで判った。
おそらく慶応年間に撮影された他の新撰組の隊士で、谷万太郎、成合清も堀與兵衛の
祇園支店で撮影していることから、この近藤勇の写真も同じ堀與兵衛の祇園支店で、
慶応二年に撮影されたものと、僕は思う。
これで近藤勇の写真については一応の結論が出たので、次は土方歳三の写真についても調べてみようと考えている。
こうご期待くださいませ。
(パチ、パチ、パチ、・・・拍手)


静寛院宮(和宮)とガラス湿板写真について

004

 

昭和三十四年に増上寺の徳川家代々の墓所が改葬、発掘された時に、第十四代将軍・
徳川家茂の正室・静寛院宮(和宮)の遺体の傍から一枚のガラス湿板写真が発見され
た。
このガラス湿板写真に写されていたのは、発掘に立ち会った美術史家たちが写したス
ケッチによると、直垂、烏帽子姿の童顔の男性が写っていた。
しかし、残念なことに翌朝、写真鑑定のために小沢健志先生が、写真を置いていた現
場事務所で観てみると、すっかり画像が消滅してしまって、ただのガラス板になって
いたという。
このガラス湿板写真にはいったい誰が写っていたのか、今となっては確認のしようも
ないのだが、静寛院宮(和宮)の御棺に入っていたことを考慮すれば、第十四代将軍
・徳川家茂の肖像写真である可能性は高い。
そうであるならば面白いのだが、将軍の肖像写真を撮影するという特別な出来事が
「徳川実記」に記述として残されていないとこを考えると、僕は違うような気がす
る。
それというのも静寛院宮(和宮)は明治10(1877)年9月2日に、病気療養中の箱根で
亡くなっていることから、このガラス湿板写真は明治になってから撮影されたガラス
湿板写真という可能性があるからである。
そうであるならば第十四代将軍・徳川家茂の肖像画を明治になって改めて写真撮影し
たものという可能性もあるからだ。
NHKの大河ドラマ「篤姫」ではドラマの演出として篤姫と徳川家茂、和宮と徳川家茂
がいっしょに写真撮影したようなことにしているが、これは全くの出鱈目だ。そんな
事実も写真も存在していない。
そんなことを考えながら僕はNHKの大河ドラマ「篤姫」を見ている今日この頃だ。
和宮については以下をご覧ください。
http://f40.aaa.livedoor.jp/~paulnobu/kazunomiya.html


古写真三昧

003

先日、東京大学、慶応大学の先生といっしょに放送大学附属図書館が所蔵している古
写真アルバムを見に行ってきた。
スチルフリードやベアトの写真アルバムなどを観るためだ。
風景写真を中心に名刺判写真も含めておよそ三百枚くらいだろうか、ちゃんと数えて
なかったのだが、そのくらいの写真を観たので少々疲れた。
翌日は埼玉県吉川市へ古写真コレクターの青木さんのコレクションを拝見させていた
だく。
こちらは珍しい、貴重な名刺判写真が数多くあり、たいへん参考になった。
その後も足立区立郷土博物館に綾瀬の金子家所蔵の古写真を観に行き、鑑定してき
た。
日本にはまだまだ貴重な古写真資料が数多く残されていると思う。
ここ最近は初心に戻ってまた近藤勇の写真について探求している。
その関係で新撰組の研究者にお会いして話しを聞いたり、週末の休日に旧家のご子孫
の連絡先を調べに現地に行ったりしている。
現存している近藤勇の写真もまだ現物を実際に手にして確認していないものもあり、
これも早急に確認しなければならないと考えている。
また、土方歳三の写真についても再調査してみたいと考えているのだが、そのために
は函館市立図書館にも調査に行かねばならず、これについてはまだ別の機会にとも考
えている。


横浜写真 風俗写真

02

明治時代に外国人向けに販売されていた日本の写真は、アルバム仕立てにされて数多
く輸出もされていた。
それらの写真は日本の風景写真だけでなく、ご覧のような日本の風俗、慣習などを写
真館のスタジオでモデルたちに再現させた写真も数多く撮影されていた。
風呂桶に炊口が付いているのは、実際にはそんなことではないので、これも作り物
だ。
もちろん室内でこの写真のように風呂を沸かしたりもしない。
特にこのような入浴シーンの写真は日本の若い女性モデルがセミヌード姿であったこ
ともあって、外国人には人気だったようだ。
そのため入浴シーンの写真はいろいろと数多く残されている。
しかもそれらの写真には古写真コレクターで古写真研究家の石黒敬章さんの研究によ
ると、モデルの女性の顔(頭部)を、元の女性から別の美人モデルの頭部に差し替え
てうまく合成している写真もある。
このような横浜写真は確かに写真としては面白い写真ではあるけれど、僕のような幕
末明治初期の写真師、古写真を研究しているものにとっては興味は薄い。
また、こういう写真は非常に数多く残されているため、貴重性も低い。
しかし、日本ではこういう横浜写真の風景写真や風俗写真を一枚一枚の形で、元の写
真アルバムからばらして、ネットオークションで出品されていたり、額装されて高い
値段で売られている。
ずいぶん前にも日本カメラ博物館で行われた古写真の講演に、額装された横浜写真を
海外で購入したというおじさんが、鑑定してくれと来ていたが、その写真は修整もさ
れていてひどい写真だった。
所蔵しているそのおじさんには、価値のない古写真だともはっきりと言えずに困って
しまった。
きっと海外の古物商などに騙されて高い値段で買わされたような気がした。
こういう写真の値段はせいぜい2~3000円が相場だと僕は思う。
本当に価値のある古写真はなかなか見つからないんですよね。
やれやれ。


続・近藤勇の写真について (その三)

一方、『近藤勇が両腕を下ろしているポーズの写真』、特に福井市郷土歴史博物館所
蔵の写真で「近藤勇 新撰組」と写真裏に墨書きがある写真は、福井の松平春嶽公の
写真アルバムにあり、オリジナルの写真である可能性が極めて高い。
僕はこの写真は松平春嶽公が近藤勇自身から直接貰った写真のような気がする。
この写真はこれ以外に一般に頒布されたり、複写された形跡が見えないからである。
ただ唯一、永見徳太郎編纂「珍しい寫真」(昭和七年、粹古堂)掲載されている写真
があるが、これは現在、現物の写真が行方不明のため確認のしようもない。
この二枚の近藤勇の写真を比較して見ると、永見徳太郎編纂「珍しい寫真」に掲載さ
れている写真はよく写っているが(汚れがなくクリア)、また、福井市郷土歴史博物
館所蔵の写真の方が、永見徳太郎編纂「珍しい寫真」に掲載されている写真より写っ
ている範囲が若干多い。(広い)
このことから福井市郷土歴史博物館所蔵の近藤勇の写真は極めて原板に近い写真とい
うことになる。
その一方、残念ながら永見徳太郎は没落、自殺してしまったため、こちらの近藤勇の
写真は所在不明というのが現状だ。
という訳で、近藤勇の写真についてはまだまだ研究の余地はあるのだが、先人の研究
成果を踏まえつつ、自分でもう一度一つ一つ確認してゆくという地道な作業が大切だ
と僕は考えている。
そして、同じことは土方歳三の写真についてもいえるのである。