Archive for 10月, 2008

続・近藤勇の写真について (その二)

近藤勇の写真が慶応年間に当時の大坂あるいは京都で堀與兵衛が撮影したことはもは
や確実なのだが、残された問題はまだある。
その一つが正確な撮影日時とその場所の問題ではあるが、これは新たな文字資料(日
記、書簡、記録など)が発見されていないため確定できない。
そのためおそらく慶応年間だろうということしかまだいえないのだが、僕は佐藤彦五
郎子孫宅所蔵の写真裏面の右側に、「京都より彦五郎に持参せしもの(慶応二年
頃)」と青いペン字で後世書かれ、左側に「第四世 天然理心流 近藤勇」と墨書き
された写真から、撮影年度は慶応二年のことではないかと考えている。
時期としては正確に書くと、近藤勇は最初に広島出張(慶応元年十一月四日から八
日)したの前後か、再び広島出張(翌慶応二年一月二十七日京都出立、三月十二日帰
京)を命じられた前後の頃と考えている。
もう一つの問題はオリジナル原版(アンブロタイプ)あるいはオリジナルプリント
(鶏卵紙)の行方である。
堀與兵衛の写真館では客に求められればガラス湿板の形で専用の桐箱に入れて売り渡
していたが、通常は鶏卵紙の紙焼きを複数枚、客に渡していたことは売上帳の記録か
ら判っている。
有名な中岡慎太郎の肖像写真はこの前者の実例(堀與兵衛の祇園支店での撮影)であ
る。
しかし、堀與兵衛の写真館では客に紙焼きを複数枚渡せば、そのガラス原版は使いま
わしていたので、近藤勇の写真もオリジナル原版は存在していない可能性もある。
近藤勇の親族である佐藤彦五郎家のご子孫宅に、それがないことは現存していないよ
うな気が僕はする。
堀與兵衛の『丙寅 入日紀覚帳』(慶応二年十一月より慶応三年五月まで)を見てみ
ると、慶応三年正月廿五日の所には
「廿五日 一、金三両 十人」とあり、撮影料金はだいたい一人、一分弐朱であるこ
とがわかる。
また、木村摂津守は慶応三年二月廿二日の会計メモ(『木村摂津守喜毅日記』)によ
ると、写真の代金としては複写の分として「写真十枚 二両二分」を支払っているこ
とから、鶏卵紙の紙焼きは一枚あたり一分であることもわかる。
これは堀與兵衛の「写真売上帳」の慶応三年六月十日の記載に、「外に紙写金二両二
分」という類似の記述があることから、料金が少し高いような気もするが許容範囲の
ように思う。
また、佐藤彦五郎家のご子孫宅にある近藤勇の名刺判写真と、郡五兵衛新田の名主見
習・金子健十郎家のご子孫宅にある近藤勇の名刺判写真は、どちらも近藤勇から送ら
れた、渡された写真としての逸話が残っているが、写真台紙の形態を調べてみると、
僕はどちらの写真も後年の明治になってから入手した写真だと考えている。
佐藤彦五郎家のご子孫宅にある近藤勇の名刺判写真は、オリジナルの写真だと思う人
は多いだろうが、この写真には近藤勇の座っている敷物の下部にあるピラミッド形の
模様がほとんど写っていないため、オリジナルの複写写真とは思えないのである。


続・近藤勇の写真について

以前にも書いたけど近藤勇の写真については、洋学史学会での発表、京都の霊山歴史
館の機関誌『維新の道』で掲載していただいた。
今年は、足立区立郷土博物館の『足立史談』第488号、489号の二回に分けて、
綾瀬五兵衛新田の新撰組の研究者・郷土史家(綾瀬新選組研究会)の増田光明さんと
の対談でも掲載させていただいた。
現在、確認されている近藤勇の写真は、以下の8点になる。
『近藤勇が両腕を下ろしているポーズの写真』(2点)
①福井市郷土歴史博物館所蔵の写真で「近藤勇 新撰組」と写真裏に墨書きがある写
真。
②永見徳太郎編纂「珍しい寫真」(昭和七年、粹古堂)掲載されている「新撰組隊長
 近藤勇」の写真。
『近藤勇が両腕を組んでいるポーズの名刺判写真』(6点)
①佐藤彦五郎子孫宅所蔵の写真裏面の右側に、「京都より彦五郎に持参せしもの(慶
応二年頃)」と青いペン字で後世書かれ、左側に「第四世 天然理心流 近藤勇」と
墨書きのある写真
②東京都港区立港郷土資料館編『写真集 近代日本を支えた人々 井関盛良旧蔵コレ
クション』(東京都港区教育委員会、平成3年3月)P15に掲載写真(縦8.9cm×横
5.3cm)。
この写真台紙裏には「明治元辰年 於京師梟首セラル 元東京撃剣家」と墨書きがあ
る。
③近藤勇が武州足立郡五兵衛新田の名主見習・金子健十郎家から、明治元年四月に下
総流山に転陣する際に、世話になった謝礼として、二千疋(五両)を添えた熨斗袋に
「大和」と署名し、自分の写真とともに金子家に贈ったといわれる写真
④元は個人のコレクターが所蔵していた写真で、現在は学習院大学史料館が所蔵して
いる写真。
⑤大阪のおもちゃ博物館が所蔵している写真。
⑥元は個人のコレクターが所蔵していた写真で、現在は別の古写真コレクターが所蔵
している写真。(但し現所蔵者の連絡先などは不明)
『それ以外のまだ現物が確認されていない近藤勇の写真』
①元新撰組隊士の猪野忠敬が所蔵していた写真。
②元新撰組隊士の近藤芳助こと当時の川村三郎が所蔵していた写真。(現在、川村三
郎の令孫中田芳江氏所蔵)
③元新撰組幹部であった永倉新八が同じ元新撰組の近藤芳助こと当時の川村三郎より
明治二十一年に譲り受けた複写写真。
この写真には永倉の裏書きとして以下の内容が書かれている。
「大正二年五月二十二日 東京市本所区番場町四丁目七番地 山田音羽 綱枝太夫 
近藤勇写真見るに泪を流し、同人写真拝借いたしたくと申し、貸し与ふ。両人複写い
たし送る。右 土方歳三義豊 左 近藤勇昌宜 新撰組副長助勤 永倉新八戴之 改
 杉村義衛治備 大正二年六月十日」
この近藤勇の写真は、「右 土方歳三義豊 左 近藤勇昌宜」というのは土方歳三の
写真と近藤勇の写真が台紙に並べて貼られていたらしい。
④近藤勇の京都時代の娘で、山田音羽が永倉新八から近藤勇の写真を借りて複写した
写真。
⑤自由党員で、自由民権運動で活躍した神奈川県議の吉野泰三(近藤勇の甥で娘婿の
近藤勇五郎の親族)が所蔵していた近藤勇の写真。
さて、これらの近藤勇の写真はその敷物の柄のデザインから京都の写真師・堀與兵衛
が慶応年間に撮影したことは確定できるが、その後、いろいろな人の手を経て、複写
された名刺判写真が今のブロマイド写真のようにして、販売されていたことも判っ
た。
僕が調べたところ、『近藤勇が両腕を下ろしているポーズの写真』の2点を除けばあ
とは全てそういう明治時代の名刺判写真で、オリジナルの写真ではない。
また、この『近藤勇が両腕を下ろしているポーズの写真』と『近藤勇が両腕を組んで
いるポーズの写真』は、詳細に画像分析してみると、同日に撮影された写真ではな
く、日をおいて二度撮影されたことがわかる。


続・「幕府脱走軍兵士」

続・「幕府脱走軍兵士」として知られる古写真について
先日、東京大学に新しく建設されました建物、「福武ホール」にて行われた、渡辺出
版及び馬場研究室の歴史系プロジェクト主宰の『皇族に生まれてII―秩父宮談話集』
(渡辺出版刊)という本の出版報告会&懇親会に出席した。
会場では軍装関係の研究者である平山先生に久しぶりにお会いしたので、僕は函館戦
争の旧幕府軍の集合写真などについていろいろご教授いただいた。
「幕府脱走軍兵士」として知られる古写真で、僕は左端の人物は小杉雅之進と考えて
いるのだが、その根拠とした榎本武揚たち、函館共和国の幹部たちの集合写真(後列
左から小杉雅之進、榎本対馬、林董、松岡磐吉、前列左から荒井郁之助、榎本武揚)
に写っている小杉雅之進の軍装は海軍の軍服であることが確認できました。
よく見ると襟に錨のマークがあります。
また、小杉雅之進は戊辰戦争では榎本武揚に従い、箱館政権では江差奉行並となった
人物ですが、元は安政4年(1857年)に、長崎海軍伝習所三期生に選ばれ、機関学を学
んでいます。
その後、小杉雅之進は軍艦操練所教授方手伝となり、万延元年(1860年)には、咸臨
丸の太平洋横断時には蒸気方の見習士官を務めました。
また、慶応3年(1867年)には、軍艦蒸気役一等となり、開陽丸機関長を務めていま
す。
従って榎本武揚たち、函館共和国の幹部たちの集合写真の、後列左端の人物は、その
軍装からも小杉雅之進で問題ないと思います。
この二つの集合写真を比較するとその容貌から、この人物はやはり小杉雅之進と断定
してもいいと僕は思いました。
「幕府脱走軍兵士」として知られる古写真については下記をご覧ください。
http://members.at.infoseek.co.jp/Bakumatu/hako_dasso.htm


新撰組隊士 横倉甚五郎

001
ここ数年、近藤勇の肖像写真について研究していることもあって、新撰組関係の参考
本があると入手して読むようにしている。
最近の本では、松浦玲著『新選組』(岩波新書)、大石学著『新選組 「最後の武士」
の実像』(中公新書)がよかったと思う。
さて、先日お天気は曇天とよくなかったのだが、週末のウォーキングで急に思い立っ
て、京王線・北野駅まで行くことにした。北野駅前からバスに乗って北野台のバス停
で下車、「絹の道」という山道を歩いて、柚木街道まで出る。
柚木街道を西に歩いて鑓水という土地にある日蓮宗のお寺、大法寺本堂裏にある「ま
や霊園」に行ってきた。
北野台から大法寺までの約5キロの行程を「絹の道」も含めて早歩きでおよそ1時間
で歩いた。
その途中にある鄙びた地元の神社「諏訪神社」と、「絹の道資料館」にも立ち寄った
ので、かなりハードなウォーキングとなってしまった。やれやれ。
さて、この「まや霊園」には、元新撰組の隊士で横倉甚五郎という人のお墓があっ
て、そこが本日の僕の真の目的地だったからだ。
この横倉甚五郎という人は、元治元年(1865年)に近藤勇による隊士募集に応じて伊
東甲子太郎らと共に新選組に入隊した人で、油小路の変には大石鍬次郎らと共に出動
参加している。
また、慶応三年(1866年)十二月に伏見街道を下った墨染を過ぎた辺りで、高台寺党
の残党が近藤勇を狙撃した際にその護衛に当っていた人物だ。
その後、横倉甚五郎は戊辰戦争で各地を転戦後、函館で降伏しましたが、坂本龍馬の
暗殺犯の容疑者として東京に送られ、取調べ中の明治三年に獄死したといわれている
が、小塚原で斬首されたともされている。
墓は最初、この小塚原の回向院にあったそうだが、その後八王子の上野町にあった大
法寺に改葬された。
この大法寺が昭和42年に現在の鑓水に移転したため、横倉甚五郎の墓も今はこの大
法寺本堂裏にある「まや霊園」にあるというわけだ。
横倉甚五郎の享年は参考資料には三十七才と書かれていたが、墓には明治三年八月十
五日歿行年三十五才と墓石に彫られていた。
この横倉甚五郎の墓は横倉家の墓の右手に、横倉甚五郎の子孫である横倉弥氏が昭和
五十一年秋に建立していた。
こういう事を実際に出かけて行って自分の目で調べてみると面白いだ。
横倉甚五郎については以下をご覧ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%80%89%E7%94%9A%E4%BA%94%E9%83%8E
略歴
横倉甚五郎(よこくら じんごろう、天保5年(1834年) – 明治3年8月15日(1870年9
月10日))は、武州多摩郡八王子出身の新選組隊士。天然理心流。
元治元年(1865年)、局長近藤勇による隊士募集に応じて新選組に入隊。
慶応3年(1867年)11月の油小路の変では大石鍬次郎らと共に出動。
慶応4年(1868年)1月に戊辰戦争が勃発すると、鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦い、
会津戦争を経て仙台で榎本武揚艦隊と合流し、蝦夷地へ渡航した。
明治2年(1869年)5月15日に弁天台場が降伏し、横倉は同所にて謹慎を言い渡されて
いたが、元京都見廻組今井信郎などと共に坂本龍馬、伊東甲子太郎暗殺の嫌疑をかけ
られ、同年11月9日、東京の糾問所に送検されて取り調べを受けた。
明治3年8月15日、獄死。享年37。
弁天台場降伏時に詠まれた辞世の句が残る。
「義のために つくせしことも 水の泡 打ちよす波に 消えて流るゝ 」


小杉雅之進

002 幕府脱走軍兵士

001

後列左から 小杉雅之進 榎本対馬 林董 松岡磐吉

前列左から 荒井郁之助 榎本武揚

「幕府脱走軍兵士」として知られる古写真についてさらに調べてみた。
そこでちょっと訂正させていただきお詫び申上げます。
僕は最初、左端の人物は瀧川充太郎ではないかと考えていtが、どうやら違うよう
だ。
添付の集合写真を眺めているうちに小杉雅之進で正解なのでは思ったのである。
この左端の人物は小杉雅之進の方が似ていると思った。
そこでさらに小杉雅之進について、合田一道 編著、小杉伸一 監修『小杉雅之進が描
いた箱館戦争』(北海道出版企画センター、2005年)を読んで調べてみた。
この本に慶応元年に横浜で撮影された小杉雅之進肖像写真が掲載されていた。
また、小杉雅之進肖像写真(都筑区荏田東 小杉伸一氏)が横浜開港資料館に寄贈さ
れたそうなので、これも近いうちに観に行こうと考えている。
小杉雅之進については以下をご覧ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%89%E9%9B%85%E4%B9%8B%E9%80%B2
略歴
安政4年(1857年)、長崎海軍伝習所三期生に選ばれ、機関学を学ぶ。その後、軍艦操
練所教授方手伝となり、万延元年(1860年)、咸臨丸の太平洋横断時には蒸気方の見
習士官を務めた。慶応3年(1867年)、軍艦蒸気役一等となり、開陽丸機関長を務め
た。戊辰戦争では榎本武揚に従い、箱館政権では江差奉行並となった。
赦免後、明治7年、内務省駅逓寮十等出仕、以後、明治14年、農商務省商務局二等
属、管船局准奏任御用掛(同僚に小笠原賢蔵、矢田堀鴻ら幕府海軍関係者)、明治18
年、逓信省管船局御用掛准奏任(同僚に矢田堀鴻、森本弘策)、司検官、船舶課長、
大阪船舶司検所長を歴任、海事行政を担当した。退官後、大阪商船の監督部長となっ
た。


静寛院宮(和宮)の写真について

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←和宮(かずのみや)?

といわれる写真

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        英照皇太后→              

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  第十四代将軍・徳川家茂の正室・静寛院宮(和宮)の写真といわれる写真がある。
この写真は近年、「徳川将軍家展」でも紹介されて話題になったが、実をいうと僕は
ちょっとどうだろうかと考えている。
この写真は添付の英照皇太后の肖像写真と比較すると、髪型のせいもあるが似ている
と思う。
内田九一が明治になって撮影した英照皇太后の肖像写真の別カット、もう少し正確に
書けば時期をおいて二度目に撮影した写真ではないだろうか。
内田九一は明治天皇、昭憲皇太后、英照皇太后の撮影を公式に許された最初の写真師
なのである。
それにしても篤姫役の宮崎あおいちゃんと和宮役の堀北真希ちゃんの美しいこと、旬
の女優さんは今光り輝いている。
そんなことを考えながらNHKの大河ドラマ「篤姫」を見ている今日この頃だ。
和宮については以下をご覧ください。
http://f40.aaa.livedoor.jp/~paulnobu/kazunomiya.html