新門辰五郎の肖像写真 その二
新門辰五郎の肖像写真について、「静岡で写真を趣味の一つにしていた徳川慶喜が、
新門辰五郎を撮影したといわれている」と書いたが調べてみた。
まずは徳川慶喜について詳しい松戸市戸定歴史館の斎藤洋一先生に先のコラムに書いた内容についてご意見を伺った。
すると、「辰五郎の写真を慶喜が撮影したという逸話に対しては、かなり疑問を感じ
ます。私が調べた範囲では、慶喜が間違いなく自分で写真を撮影し始めたのは明治26
年からですので、果たして慶喜が辰五郎を撮影したという話の根拠は何なのだろうと
考えてしまいます。」というお答えをいただいた。
また、
①新門辰五郎は静岡の常光寺に子分数名と住んで、慶喜の身辺を守っていた。
②明治2年12月、清水港本町の廻船問屋松本屋の奥座敷で、新門辰五郎と次郎長が
会見している。
慶喜の身辺をどう守るかというテーマについて話し合ったのだ。
明治2年12月の松本屋奥座敷での右の会談を証言したのは、当時12歳で松本屋に
小僧として奉公していた保田七蔵である。
保田七蔵は後に函館に渡り、事業を成功させて清水にもどり、晩年を過ごすが、昭和
14年頃、梅蔭寺の月心和尚に小僧時代の目撃談を語ったらしい。
保田七蔵翁は大柄な身体に富士登山者が携行するような杖を片手にし、月心和尚の隠
居所にしばしば訪ねていた。
月心和尚に取材してまとめた河原井淡著「実録次郎長物語」には、次のように書かれ
ている。
「十畳の座敷には辰五郎と次郎長が向いあい、その両側に武士と松本屋が座って
た。」
③次郎長に後事を託した新門辰五郎は、明治四年に東京へ引揚げる。
ということで、明治26年から自分で写真を撮影し始めた徳川慶喜が新門辰五郎を撮影
することは、ちょっと考えられないのである。
但し、静岡時代に徳川慶喜の身近に居た中島鍬次郎という人物がいた。
この中島鍬次郎は写真術を修得し、幕末から徳川慶喜の傍で写真撮影をしている。
この中島鍬次郎に徳川慶喜が命じて、新門辰五郎を撮影することにしたということは
考えられる。
このことが後に辰五郎の写真を慶喜が撮影したという逸話になったのではないだろう
か。
いずれにしても当事者の日記や書簡などの一次資料に、確かなことが書かれていない
のかどうかもう少し探索する必要がありそうだ。
ということでこれについては宿題としてもう少し調べてみようと思う。




