Archive for 8 月, 2008

長与専斎

 

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普通の人はよく知らない、あるいは全く知らないと思うが、長崎県大村の偉人の一人
として長与専斎は外せないだろう。
万延元年に大村から長崎に赴き、ポンペについて蘭医学を学んだ人物だ。
日本の医療福祉の祖ともいわれている。
この長与専斎の若い頃の写真は回想録『松香私志』に掲載されているが、慶応年間に
長崎の上野彦馬の写真館で撮影されている。
この人は松本良順と共に日本の西洋医学の先覚者の一人としてもっと有名になっても
いいと思うのだが、この人を主人公とした小説や映画などが出来なければ無利かもし
れない。
司馬遼太郎先生が生きていて、力作でも書いてくれたらよかったんですけどね。
長与専斎の墓は東京都港区南青山2-32の青山霊園にある。
今度またお天気のいい日にでも青山霊園に行って調べてこようと思う。
【参考書籍】
小川鼎三・酒井シヅ校注『松本順自伝・長与専斎自伝』(平凡社東洋文庫、1980年)
外山幹夫 『医療福祉の祖 長与専斎』 (思文閣出版、2002年)
長与専斎
長崎生まれ。医師・衛生行政家。父は肥前大村藩医。安政元年(1854)大坂の適塾に
入門し、のち塾頭となる。万延元年(1860)長崎に赴き、ポンペについて蘭医学を学
んだ。明治4年(1871)上京し、文部少丞となり岩倉遣欧使節団に随行して渡欧、西
欧の医学教育を視察、調査。6年(1873)に帰国後、文部省医務局長。8年(1875)内
務省衛生局の初代局長となる。司薬場の建設、医制の制定、防疫・検疫制度の導入な
ど、わが国衛生行政の基礎を築いた。元老院議官、貴族院議員などを歴任。回想録
『松香私志』(1902)がある。
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/306.html


勝海舟

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ご覧の勝海舟の名刺判写真はよく幕末期に撮影と、間違って紹介されているが、この写
真は明治初年に浅草大代地の内田九一の写真館で撮影された写真だ。
勝海舟の日記を読むとおそらく明治九年に撮影された写真と思われる。
だから正確には二代目・内田九一時代の写真で、撮影技師はおそらく初代・内田九一の弟子、長谷川吉次郎か古賀暁が撮影した写真であろう。
先日読んだ植松三十里著『群青~日本海軍の礎を築いた男~』では、勝海舟は主人公
・矢田堀鴻(景蔵) のライバル役(憎まれ役かな)として登場している。
どうもこの勝海舟という人は、本所生まれの江戸っ子というせいか口も悪く、大久保一
翁と共に徳川幕府の幕引きは見事に行ったが、その後、新政府の高官にも任じられて、
明治に入ると「あれもこれも俺がうまくやった」と人に誇張して話しているせいか、意
外と人気が無い。
僕もどちらかというと勝海舟より、お父さんの勝小吉の方が好きだ。
それでも有名人の古写真ということもあって、こういう名刺判写真がネットオークショ
ンに出品されると、複写の写真でも時々高額な金額で取引されている。
厳密にいえばちゃんと内田九一の写真館の写真台紙の名刺判写真なら高くても仕方が
ないと僕は思うのだが、写真台紙裏に何もない名刺判写真ならば、そうたいした値打ち
はないような気がする。
明治時代はいろんな写真館が勝手に写真を複写して、ブロマイド写真のように一般に広
く販売していたからだ。
それに勝海舟の銅像が隅田川沿いの墨田区役所前に今は建っているけれど、どうせな
ら赤坂の氷川小学校の辺りか、両国駅前、本所界隈に建てて欲しかったと僕は思う。
土佐の坂本龍馬の銅像を真似しているみたいで、なんだかなぁ、・・・


明治東京 新橋芸者 こさん(沢潟屋の小三)

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ご覧の写真はつい最近入手した芸者こさんの名刺判写真だ。
明治時代のいわば人気アイドル写真の一枚。
この「こさん」について調べてみると、明治十一年の松本万年の『新橋雑記』に「沢
潟屋の小三、亀屋の駒吉(容姿よし)。」と書かれている。
おそらくこの「沢潟屋の小三」だろうとかってに考えて、さらに調べてみると成島柳
北の『新柳情譜』に書かれていた。
以下がその引用になる。
小三(沢潟屋)
 丸顔で眉毛が長く色白は誰か、仇名を白地蔵と呼んでいる。
その名は小三であるという。小三は肌が白い上に、厚化粧なので、こうこうとして夜
を照らしているようである。
僧に聞いてみると、地蔵尊というものは慈恵に豊んでいて、人を救うので、それに報
いる者が多いという。
小三は多情多術で、千変万化なので、大ぜいの客が金を投げ出すようにして、その艶
福を求めようとする者が絶えない。
まさに地蔵の称は当っている。今年の五月十三日の夜、小三は情人と木挽町で災難に
かかって縄目の恥をうけた。
私は城北の地で、これをきいた。縛られ地蔵というものがあるが、小三はこれと似て
いると言われても致し方はない。
仇名が「白地蔵」というのも、今の時代ならばちょっとひどいような気もするが、当
時としては肌が白い美人ということで誉め言葉なんだろう。
古写真には当時の一般庶民の女性も多く写っているがその姿は色も黒く、スタイルも
寸胴、短足で背も低く、容姿、見栄えもよくない。
さてこの写真の「小三」については、皆さんはどう思われるでしょうか。


東京 麻布十番 善福寺の逆さ銀杏

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先日、麻布にあるお墓を調べに行く用事もあって、都営地下鉄・大江戸線、麻布十番駅
で降り、ついでに麻布山善福寺の境内にある「逆さ銀杏」を見てきた。
ご覧の古写真は麻布七不思議の一つでもある「逆さ銀杏」である。
この「逆さ銀杏」は樹齢七百五十年の老大木で、親鸞上人が立てた杖が、そのまま地に
生えてやがて大木となり、その形から逆さ銀杏とも、その成り立ちから御杖銀杏とも呼
ばれ、天然記念物に指定されている。
今見てもこの銀杏はかなり大きく、戦災の前は三倍位あったといわれているがどうだろ
うか。
また、この「逆さ銀杏」がある善福寺は、幕末にアメリカ公使館となったお寺だ。
だから「タウンゼント・ハリスの碑」もある。
他にも墓域には「親鸞聖人像」、「福沢諭吉夫妻の墓」、「越路吹雪記念碑」と多くの
重要文化財が点在している。
おまけに「麻布十番」という地名の謂れは、昔、ここで売られた乗馬用の袴を「十番
袴」と称していたので、そういう地名になったと伝えられている。
今では「麻布十番」の商店街は、人通りも多く賑やかな街で、おしゃれな店も多い。
「逆さ銀杏」がある善福寺の場所は下記をご覧ください。
http://jin3.jp/7fusigi/sakasa.htm


宗家の人々

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つい先日、品川区西大井6-10-18にある伊藤博文のお墓を観にいってきた。
しかし、日曜日のため入口の門が閉められており、あいにく墓域に入ることができなか
った。
仕方が無いので七福人めぐりが大好きな僕は、前から気になっていた「荏原七福神」廻
りをすることにした。
品川区にはこの「荏原七福神」と「東海七福神」の二つがあるのだが、僕は以前に旧東
海道沿いを散策して「東海七福神」の方はすでにクリアーしている。
さて、この「荏原七福神」の一つに「養玉院如来寺」がある。
このお寺は寛容で財宝をもたらす神、「布袋」があるお寺で、如来堂には五体の大きな
仏像が安置され『大井の大仏(おおいぼとけ)』とも言われている。
いつもの僕ならばここで「布袋」の印を貰ってさっさと次のお寺を目指して歩いていく
のだが、何となく境内の石仏や石碑なども観ていた。すると如来堂裏に広がる墓地に古
い大きな墓がたくさんあることに気がついた。
こういう墓石のお墓はだいたい大名家の墓だと知っていた僕は、そのまま墓地の奥に誘
われるように入り込んで、いったい何という大名なんだろうかと墓石に彫られた文字を
調べてみることにした。
すると驚いたことに「対州」と彫られていたのである。
つまりここにずらりと並んだお墓は対馬藩藩主、宗家の人々のお墓(対馬藩宗家墓域)
だったのだ。
僕は対馬府中藩の第16代(最後)の藩主で、維新後、宗重正と改名した「宗 義達(そ
う よしあきら)」と思われるお墓に手を合わせて、宗家の家族写真については見つけ
て、今は全て大阪の内田写真株式会社が所蔵していることを報告した。
それにしても偶然とはいえ、ちょっと不思議な気分だった。


名流婦人の今昔

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古写真の人物鑑定で難しいのが女性の古写真の人物特定作業だ。
というのもそもそも女性の古写真で名前がはっきりしているベンチマークとなるよう
な古写真が少ないからである。
また、若い頃の女性の顔が歳をとると非常に変わることも多いため、どこかしら面影
が残っている場合もあるのだが、ときには同じ女性とはどう考えても思えないことも
ある。
そこで古写真ではないのだがご覧のような資料が役に立つのだ。
僕の本来の研究テーマは幕末・明治初期の古写真なので、こういう参考資料は必要で
はないのだけれど、よく古写真の鑑定を頼まれるので、最近ではこういう資料も見つ
ければできるだけ購入するようにしている。
あんまり手を広げすぎるとお金も掛かるし、際限が無いのだが先日もつい日露戦争関
係の資料を購入してしまった。
それと共に幕末・明治初期の膨大な参考書籍、古写真関係の本も読むようになった。
自分でも何でこんなに古写真の世界にのめり込んでしまったのか。
一枚の古い写真を解明するために何年も掛かっている。
まぁ、それでも何十年もよく判らなかった古写真について解明できたときはうれし
い。
きっとこれからも古写真の森の中で道に迷っているんだろうなぁ、・・・そんな気が
する。
やれやれ。


大久保利通と西郷隆盛

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大久保利通の肖像写真といえばご覧の名刺判写真が一般的だ。
また、西郷隆盛の肖像写真といえばご覧の写真が一般的だが、これは正確にいえば写
真ではなくてキヨソーネが大山巌と西郷従道の二人の親族の顔を参考にしたモンター
ジュで、元は石版で作成したものを写真にしたものである。
それでも今日、こういう古写真資料が残されているお陰で僕たちは大久保利通と西郷
隆盛の姿を具体的なイメージとして知ることができるわけだ。
司馬遼太郎先生の小説「翔ぶが如き」を読む際にもこういう写真があれば、よりリア
ルに小説を楽しむこともできる。
また、僕のように大久保利通と西郷隆盛の二人の今のご子孫にも会ったことがある
と、いっそう感慨深いものがある。
ここ数年、不思議なことに古写真を調べているとその古写真に写っているご子孫に会
うことも多い。
それは大久保利通と西郷隆盛のような有名な人のご子孫もそうなのだが、一般の方に
は知られていないが幕末から明治初年にかけて活躍した人物の場合もそうなのであ
る。
こうなるともう縁としかいいようがないのだが、都内の霊園を歩いていてそういう人
のお墓を偶然、見つけることもあるので、何だか奇妙な気分になることも多い。
どうせなら僕としては美人の芸者さんのご子孫で、自分の恋愛対象になりそうな独身
の美人の女性にお会いしたいものなのだが、そういことは一度もないんですよね、こ
れが。とほほ、・・・
もっとも古写真で見るヌード写真の女性はほとんど寸胴、短足の典型的な昔の体型
で、今の女性と比べればスタイルが悪く魅力的ではないです。
それでもたまに僕好みのすごい美人の古写真を見ると、会ってみたいと本当に思うこ
とがある。
もっとも今生きていてもすごいばーさんなんだからしょうがないですよね。
古写真を多く掲載紹介している参考資料で新人物往来社、世界文化社の本があるけれ
ど、そんな本に以前つきあっていて振られた彼女とよく似た古写真が掲載されてい
て、それを観たときにはちょっと懐かしかったし、悲しい気分にもなりました。
あの子はいま何をしているんだろうとか、もう結婚したんだろうなぁなんて考えてし
まって、それに比べて不甲斐ない自分を省みて遅くまでお酒を飲んだものです。
やれやれ。


江戸東京歩き

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江戸東京歩き

ここ数年、週末になると東京の町を歩いている。
一つには健康のためのウォーキングということでもあるが、ただ歩くだけではつまら
ないので、寺社仏閣、名所旧跡を訪ねて歩くようにしている。
そのため出かける前には事前に歩く予定の場所の予備知識を参考資料になる本をよく
読んで行くようにしている。
最近は以前歩いた場所でもテーマを変えて歩くことも多い。
それは時には名作の舞台であったり、幕末明治維新の有名人のお墓を探すことだった
りする。
そのため寺院の墓域や霊園の中を古いお墓を探して何べんも同じ通路を歩いて見て廻
ることもある。
その際には事前に社務所などに立ち寄りお墓の場所を教えていただいたり、その許諾
を得てからということもあるし、時には勝手に墓域に入ってお墓を探すこともある。
好きな小説の舞台を歩くのも楽しい。
主人公が歩いた道を同じように歩いて当時の風景を想像するというわけだ。
最初の頃は古写真の風景写真を眺めて、カメラポジションとなる場所を探して歩いた
こともあった。
大坂城や旧江戸城(皇居)周辺など今でも同じ場所で古写真に写された同じ風景を写
真に撮る事ができるところもあるが、東京の場合そのほとんどがマンションなどのビ
ルに邪魔されて見えない場合も多い。
また古写真に写された寺社仏閣も関東大震災や東京大空襲で焼けてしまい、戦後再建
されたところが多いので、同じ寺社仏閣でも今行くと本堂の向きや場所さえ変わって
しまったところもある。
また隅田川に掛かる橋も古写真に写された当時とはその位置が移動していたりするの
で、こうなるともう想像力をフルに稼動させなければ見当もつかないのだ。
そのため僕はいつもカメラや名所旧跡の参考資料の他に、江戸切絵図、明治時代の地
図、今の東京区分地図などの資料を持って歩いている。
時にはそれ以外に小説も持って歩くので、カバンも重くなり非常に疲れることにな
る。
また、僕は昼食や夕食はできるだけ現地のうまい蕎麦屋や鰻屋などに決めている。
そのためそういうグルメなガイドブックや雑誌なども持ってゆくのだが、そのため何
だか苦役を行う修行僧的な気分になることもある。
こんなに苦労して東京の町を歩いているのに、帰宅してから反省会を一人でしている
と見過ごしてしまったお墓や名所旧跡に気付くこともあって悔しい気分になることも
あるのだ。

さて、そんな事をしていると古写真の研究に時々役に立つこともある。
例えば僕は夏目漱石の足跡を訪ねて早稲田界隈を歩いたことがあるのだが、その途中
で「清源寺」(新宿区戸山1丁目)というお寺に立ち寄ったことがある。
「このお寺には墓域に漢学者の「長川東州」の墓である長川家のお墓と石碑がある。
それからしばらくして、「長川新吾(東明)」という人物が写っている集合写真につ
いて調べていたのだが、「長川新吾(東明)」が漢学者の「長川東州」の養子である
ことがわかったのだ。
そう、先日訪ねた「清源寺」の長川家のお墓は、「長川東州」と「長川新吾(東
明)」の二人のお墓でもあったのだ。」
そこで週末に改めて「清源寺」にもう一度行くことにした。
前回はただ眺めていただけだったので、今度は長川家のお墓をきちんと調査するため
だ。
特にご子孫の行方を知りたいと思った。
詳細は省くが墓石の裏に彫られていた文字を読むと大変参考になった。
何だか不思議な気分になって僕はしばらく長川家のお墓をぼんやり眺めていた。

ご覧の写真が今僕が調べている写真です。


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