Archive for 7 月, 2008

柳橋芸者 浪吉

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自宅の書庫で柳橋芸者について調べてみた。
参考書籍は『女芸者の時代』(岩井良衛、青蛙房、昭和49年)だ。
この本によると、明治十二年に雑誌「花月新誌」に、成島柳北が「新柳情譜」の連載
を始め、美人で有名な新橋、柳橋の芸者についての情譜を連載していた。
明治十二年頃は、柳橋ではおよそ114名の芸者がいたが、成島柳北が「新柳情譜」
で取り上げた芸者はその中でもとびきりの26名になる。
(原文はまだ未確認ですが)
この中に「浪吉」と「小常」などの柳橋芸者の情譜が出てくる。
ご覧の名刺判写真の芸者が「浪吉」だ。
明治14年に柳橋は全滅に近い大火があったので、芸者がのんきに写真を撮ってる場
合ではなかったと思うので、この名刺判写真はそれ以前に撮影されたと思われる。
写真台紙裏には特にデザインなどの意匠がないため、撮影した写真師の名や写真館名
は不明だ。
ただ、明治十二年頃に、これだけの背景がある写真館であることを考慮すると、柳橋
近くのそれなりの有名な写真師、写真館であったことが伺われる。
当初、僕はこの写真も写っている椅子のデザインが同じことから、浅草大代地の二代
目・内田九一の写真館で撮影されたものではないかと考えたが、背景の腰板のデザイ
ンで別の写真も多く見つかっており、これらの写真にも写真台紙には二代目・内田九
一の写真館を示すものが何もないため、その判断をまだ保留している。
ただ、二代目・内田九一の写真館で撮影された可能性が非常に高いと考えている。
明治天皇を撮影した初代の内田九一とその妻・お歌の間には子供はいなかったが、内
田の遠縁の娘で馬田良子を養女にして、外から養子を取り、この良子と結婚させてこ
の養子を二代目・内田九一とした。もっともこの二代目・内田九一は写真術の技量が
今一だったので、写真館の撮影技師としては初代の内田九一の弟子たちが行ってい
た。
長谷川吉次郎、古賀暁、飯岡仙之助、新井八郎、山際長太郎、内田清介などである。
しかしその後、これらの弟子たちも次々と独立してしまった。
また、二代目・内田九一も養母のお歌と蛎殻町の米商島田慶助の影響で、米穀相場に
手を出して失敗してしまい、とうとう写真館を倒産させてしまったようだ。
こうして一時は名声を拝した浅草大代地の内田写真館は無くなってしまったのであ
る。


東京 芝 紅葉館

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東京芝、紅葉山にあった超高級料亭「紅葉館」は、明治14年(1881年)、芝の紅葉山
に開業した純和風の高級料亭だ。
開業当初は三百名限定の会員制(一人十円の出資)だったため、政界、財界人などの
ごく一部の上流階級の人間しか会員になれなかった。
もっとも明治25年以降は、会員だけでなく一般の人も使用できるようにはなったが、
超高級料亭であったため僕のような貧乏人には全く縁の無い場所だった。
また、明治の文豪、尾崎紅葉が自分のペンネームとして使ったのがこの「紅葉館」
だ。
尾崎紅葉といえば新聞小説「金色夜叉」だが、この小説の中で、すがりつくお宮を貫
一が足蹴にする場面が、その後の芝居、映画で特に有名になった。
実はこれは尾崎紅葉の実体験に基いている。
「紅葉館」の女中、お須磨と、尾崎紅葉の文人仲間の巌谷小波が恋に落ちるのだが、
お須磨は当時の大出版社・博文館オーナーの大橋新太郎に心変わりしてしまう。
これに怒ったのが尾崎紅葉で、彼は「紅葉館」の二階廊下でお須磨を激しく詰問し、
お須磨を足蹴にしたという。
このときの体験が元になって新聞小説「金色夜叉」の名場面として書かれたわけだ。
「紅葉館」は昭和20年3月10日の東京大空襲で焼失してしまうが、その後、「紅葉
館」の広大な敷地は日本電波塔株式会社に売却され、昭和33年12月23日、この場所に「東京タワ-」が完成する。


東京 芝 愛宕館

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江戸時代から江戸東京の町を一望にできる名所としては愛宕山が有名だ。
今回ご紹介する古写真はその愛宕山のやや北よりに造られた「愛宕館」(愛宕塔)で
ある。
もう一枚は同じ明治22年(1889)に東京名所図絵で紹介された「愛宕館」だ。
ちなみに同じ年には新橋に馬車鉄道開通している。
明治22年(1889)、愛宕山に旅館兼西洋料理店の「愛宕館」ができ、そのすぐ隣には
5階建ての愛宕搭が建てられた。
この塔には望遠鏡があり、東京の町が一望できた。
この「愛宕館」の入場料は大人4銭、子供2銭だった。
この頃の東京には他にも浅草の「凌雲閣」、新橋の「江木写真館の塔」があった
が、、浅草の「凌雲閣」の評判はダントツで、「愛宕館」の方は実際にはそれほど流
行らずに明治28年(1895)に「愛宕館」は廃業してしまう。
従ってこの古写真は明治22年から明治28年の間に撮影されたことがわかる。
今まで紹介してきた同形態の古写真は、全てこの「愛宕館」の写真といっしょに購入
したものなので、これらの古写真も同じ明治22年から明治28年の間に撮影されたと僕
は考えている。
もう少し正確にいえば司法省は明治28年の竣工であるから、明治28年中に撮影された
ような気がする。
では撮影者は誰なのだろうか?
そのヒントとなる写真アルバムがある。
石黒敬章氏所蔵の中島待乳撮影の東京の風景写真アルバムだ。
それで僕は今度きちんと調査してみようと考えている。


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