Archive for 7 月, 2008

フルベッキ写真

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先週、今週末とまた都内某所へ古写真ついて調査に行ってきた。
詳細はまたいずれきちんと報告しようと考えてはいるが、重要文化財級の貴重な古写
真群を発見した。
それにしてもまだまだ日本にはそういう歴史的価値のある貴重な古写真が見つかるの
だと吃驚してしまった。
さて、今回はご覧のフルベッキ写真についてです。
フルベッキ写真についてはすでに、慶應義塾大学の准教授・高橋信一先生や東京大学
大学院情報学環の倉持基先生の『「フルベッキと塾生たち」写真の一考察』(『上野彦
馬歴史写真集成』(馬場章編、渡辺出版、2006年7月 )を読んでいただければ明快
だ。
自称肖像画家の島田隆資が昭和四十九年と五十一年の二度に渡り、雑誌「日本歴史」
に論文を発表して「フルベッキ写真」の撮影時期と二十数名の人物の特定を独断で試
み、「西郷隆盛が写っている」としてから、最近ではこの島田隆資の説を元に、加治
将一という馬鹿な作家が『幕末維新の暗号』(祥伝社)という小説を書いているが、
この集合写真に西郷隆盛や明治天皇や坂本龍馬やらが写っているという彼らの話しは
妄説にすぎない。
はっきりいえば全くの出鱈目です。
にもかかわらず相変わらず現在でもご覧のようなインチキ写真を勝手に作成してネッ
トで販売している詐欺師がいる。
もう一度、ここで書くとこういうこの集合写真は、フルベッキ親子を囲む佐賀藩が長
崎に開いた致遠館の生徒たちの写真だ。
ここに写っているフルベッキの子供についても、慶應義塾大学の准教授・高橋信一先
生の分析で、次女のエマ・ジャポニカでもう確定していいと思う。
周りに写っている致遠館の生徒たちについては、現在、高橋先生がその特定を進めて
いるが、まだその一部しか特定できていない。
しかし、いずれにしてもこのフルベッキ写真が慶応年間に撮影された写真ではないこ
とは、上野彦馬の写真館の様子でこれも確定している。
一方、東京大学大学院情報学環の倉持基先生が『「フルベッキと塾生たち」写真の一考
察』で論じた写真はこれとは別の「フルベッキと広運館の塾生たち」の写真だ。
この写真は詳細に調べてみると2タイプの写真があり、写っている塾生たちについて
も二、三の不明な人物がいるだけで、ほぼ人物名も判っている。
これについての詳細は『上野彦馬歴史写真集成』(馬場章編、渡辺出版、2006年7
)を読んでいただきたい。
さて、実は他にも「フルベッキと塾生たち」の集合写真がある。
それは板橋区の橋本忠直さんが所蔵していた写真で、朝日新聞社編『読者所蔵「古い
写真」館』に掲載されている。
この写真に写っているフルベッキには髭があるので来日後に写された古い写真である
ことが判る。
また、フルベッキの周りに写っている塾生たちも、「フルベッキと広運館の塾生たち」
の写真と同じ人物が多く写っている。
この集合写真の行方を追ってここ最近、苦労していたのだがようやく見つけた。
慶應義塾大学の准教授・高橋信一先生の論稿は下記をご覧ください。
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/cat4229856/index.html

 

以下2枚の写真は インチキ写真

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青山霊園

海の日の休日に前から課題にしていた長崎出身で、フルベッキの集合写真などにも
写っている名村泰蔵という人の墓を探しに青山霊園に行ってきた。
墓誌などもチェックしてご子孫の名前なども知りたかったからだ。
名村泰蔵のお墓は最初は小石川の伝通院にあったのだが、伝通院に行って調べてみると、後に青山霊園に移転していたからだ。
それとやはり長崎出身のフルベッキの集合写真などにも写っている可能性がある何礼
之の墓も、青山霊園にあることがわかったので、これも調査することにした。
幸いなことにどちらも管理事務所で尋ねるとすぐにその場所がわかった。
ひととおり調査して再び管理事務所の戻り、ご子孫の方が立ち寄られた際には連絡を
いただきたいと名刺を係りの人に預けてきた。
青山霊園には写真師・小川一真の墓や浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)の墓を調査した
り、お雇い外国人・キヨソーネの墓や大久保利通の墓を見たり、新撰組隊士の篠原泰
之進の墓を探しに行ったこともあるので、何度も来ているのだが、あまりに有名人の
墓が多すぎるので面白い。
今回は名村泰蔵の墓を探している途中で、西郷家の墓もここにあることを偶然知っ
た。
西郷隆盛の墓は鹿児島にあるのだが、正妻の糸子さんの墓は青山霊園の西郷家の墓域にあった。
東京には青山霊園の他にも谷中霊園、染井霊園、雑司ヶ谷霊園、多磨霊園など大きな
都営霊園があって、どの霊園も管理事務所があり霊園地図も百円で入手できるのであ
りがたい。ちなみに青山霊園は霊園地図が無料でした。(パチパチパチパチ、・・・)
僕は休日に東京都内をよくお散歩していて、名所旧跡、寺社仏閣などを全て見るよう
にしているのだが、実は有名人のお墓も探してよく見ている。
ある時、そんな都内の霊園をいつものようにお墓を探して歩いていたら、ちょっと奇
妙なことがあってそれで気味が悪くなったのでやめることにした。
もちろん今はまた再開したのだが、今僕はきちんと手を合わせてお参りしてから写真
を撮るようにしている。
青山霊園については下記をご覧ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E9%9C%8A%E5%9C%92


東京小石川 伝通院

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梅雨の合間のよく晴れた週末に、久しぶりにまた小石川にある伝通院に行ってきた。
伝通院には徳川家ゆかりの千姫のお墓やお大の方のお墓などがあり、他にも作家の柴
田錬三郎、作家・詩人の佐藤春夫、日本画家の橋本明治、明治新政府の外務卿・沢宣
嘉などなど有名人のお墓がたくさんある。
僕は新撰組について調べていた関係で、以前にここにある清河八郎のお墓を見に行っ
たことがある。
今回の僕の目的は、幕末に長崎の阿蘭陀、英語通詞で、徳川昭武と共に巴里万博にも
同行した名村泰蔵のお墓がここ伝通院にあると知って探すことだった。
何で僕が名村泰蔵について調べているかというとフルベッキの集合写真にこの名村泰
蔵が写っているからである。
そこで社務所に立ち寄ってその旨、対応に出てくれたお坊さんに訳を話すと、親切に
もすぐに調べてくれたのだが、確かに以前は名村家のお墓はここにあったのだが、今
は移転されてないと言う。
あの歴史学者にとっては悪名高い個人情報保護法のため、現当主の方の連絡先など詳
細は教えられないという。
ただお墓の移転先が青山霊園であることは教えてくれた。
僕の方はちゃっかり現当主の方のお名前などを盗み見れたのですぐにメモしておい
た。
念のため墓域も確認のため見せていただく許可をいただいて、ついでにまた伝通院に
ある有名人のお墓も一通り見学して写真に撮った。
その後、青山霊園に名村泰蔵のお墓を探しに行くのはまた今度にして、気持ちを切り
替えて小石川、茗荷谷、江戸川橋と歩いて付近の名所旧跡、寺社仏閣などを見て歩い
た。
こうなるともう僕のいつもの東京散歩なのだが、夏目漱石の元の菩提寺が「本法寺」
であることを知って面白かった。
ついでに書くとあの夏目漱石の名作「坊ちゃん」で、主人公の坊ちゃんの世話を幼少
の頃からしていたキヨのお墓が、「だから清の墓は小日向の養源寺にある」と書かれ
ている。
しかしこれは清のモデルになった西村家のお墓が本当に駒込の養源寺にあることと、
この夏目家の菩提寺が小日向の本法寺にあることを足して二つに割ったのだ。
ちなみに夏目漱石のお墓は雑司が谷霊園(1-14-1側3番)にある。
名村泰蔵については下記をご覧ください。
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/155.html?c=0


矢田堀鴻

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先日の日曜日に、ちょうど植松三十里著『群青~日本海軍の礎を築いた男~』という
矢田堀鴻を主人公とした小説を読んだので、早稲田の宗源寺に行ってきた。
矢田堀鴻については下記をご覧ください。幕府海軍のエリートの一人だ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E7%94%B0%E5%A0%80%E9%B4%BB

ついでに早稲田界隈を久しぶりに散歩した。
主に夏目坂界隈の夏目漱石ゆかりの場所(生誕地、終焉の地)や有島武郎旧跡跡や附近のお寺を見て歩いた。
宗参寺には山鹿素行のお墓、牛込氏のお墓があり、宝祥寺には歴史小説の創設者・塚原渋柿のお墓があったので、見学のついでにお参りして来た。
夏目坂には他にも誓閑寺というお寺があり、ここの鐘の音は漱石の幼い頃の思い出として『硝子戸の中』でも書かれている。
夏目坂を下って地下鉄早稲田駅のある交差点の角には、延宝年間に開業した酒屋「小倉屋」が今でもあり、漱石の生家はこの店舗の裏にあった。
この店はあの有名な高田馬場の決闘の際に中山安兵衛が決闘に駆けつける前に、この店で升酒を飲んだという。
さて、歩きたらないのでもう少し歩くことにして、早稲田通リを西に歩き、諏訪通りを歩いてJR高田馬場駅方向へ行くことにした。
途中に諏訪神社、玄國寺がある。
この玄國寺は、岩倉具視の屋敷を移築した建物がありまして、本堂横の庫裏の建物がそうだ。
諏訪通りを少し戻って今度は明治通りを北に歩き、道の途中にある島村抱月旧居跡を探したがこれは見つからず、そのまま再び早稲田通リに出て、西早稲田三丁目二十七番地の五、六を探す。ここが江戸川乱歩の旧居跡なのだが、ここにも説明の板も碑も何もなかった。
しかたがないので明治通りを西に歩き、JR高田馬場駅前のロータリーを今度は南に下がって、志賀直哉の旧居跡も観てきた。
この日の散歩はこれでお終い。
あー、やれやれ、疲れました。


東京 芳町 芸者 奴

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芳町の芸者、「奴」の名刺判写真は時々見つけることがある。
ご覧の写真もそんな一枚だ。
芳町とは正式には葭町(よしちょう)といい、今の人形町から浜町一帯をさす花柳界の
ことだ。
この葭町は柳橋らと並んで東京でも最も古い花柳界の一つであり、江戸時代より葭町
の名で親しまれてきた。
新橋や赤坂の花柳界が太平洋戦争の戦禍で再出発を余儀なくされる中、葭町は幸い大
きな戦火を逃れ、明治の面影を残しつつ、戦後まもなくから三業地帯として栄えた。
昭和から平成にかけては、移りゆく社会の趨勢のため、葭町でも数々の料亭がお店を
閉めが、老舗料亭の「濱田家」などを中心に、今も花柳界の伝統を守りながら息づい
ている。
この葭町で、芸者の「奴」という名前は新橋の「ぽんた」とならんで、花柳界でも名
妓にしか与えられない名跡だ。
初代の「奴」は、明治時代の論客、福地桜痴に愛されたが、結核のため早逝してい
る。
この名刺判写真の芸者「奴」がその初代の「奴」の姿ならうれしいのだが、さすがに
僕もそこまではわからない。
さて余談だが、日本の女優第一号として明治の演劇史を飾った川上貞奴は、この葭町
でも指折りの芸者置屋浜田屋の芸妓であった。
【川上貞奴】
本名貞。明治4年(1871)生まれ。
幼い頃、芳町の芸者屋浜田屋の養女となり、やがて奴と名乗って芸者に出、伊藤博文
の寵を受けた。
明治23年(1890)、川上音二郎と結婚。以後川上一座と共にした。
川上一座海外渡航の時、始めて貞奴と名乗って舞台に立ち、欧州を巡業して一躍その
名を高めた。
帰朝後は新演劇運動に活躍し、女優養成所を設けて多くの女優を育成した。
昭和21年10月7日没(1946)、享年76歳。


横浜 田中家仲居時代のおりょうさん

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今年五月に、『「若き日のおりょうさん」論争に決着か』という新聞記事が各新聞、ス
ポーツ新聞などに掲載された。
そのうちの一つで、以下はスポニチの新聞記事である。
「若き日のおりょうさん」論争に決着か
研究者やファンの間で坂本竜馬の妻「おりょう(竜)」かどうか論争になっていた若
い女性の写真を、警察庁の科学警察研究所が、本人と確認されている晩年の写真と比
較、15日までに「同一人物の可能性がある」との鑑定結果をまとめた。鑑定を依頼し
た高知県立坂本竜馬記念館が同日、発表した。論争の対象は、格子柄の着物を着た30歳前後とみられる女性の写真。裏に「たつ」と書かれ、おりょうだという声が出る一
方、「若いころは撮影を拒んでおり、別人」との意見も出て、見方が分かれていた。鑑
定は顔の輪郭など7項目を精査。目や鼻の位置などに整合性が認められ、「別人である
ことを本質的に示す根拠はない」と結論づけている。
[ 2008年05月16日スポニチ]
この記事によると、警察庁の科学警察研究所は、「同一人物の可能性がある」、「別人
であることを本質的に示す根拠はない」と述べているようだが、これは要は「同一人物
だと100%断定できないけど、別人だとも100%断定できない。私たちには鑑定できませ
んでした。」と述べていることに等しいと僕は思う。
だから何のために記者発表したのかも僕にはよくわからなかった。

さて、若い頃のおりょうさんが横浜の田中家という料亭で仲居をしていて、この田中家
の従業員たちが撮影された集合写真の中に、若い頃のおりょうさんが写っているという
話しがある。
ご覧の新聞記事と集合写真がそうだ。
田中家では当時、彼女は三十七歳位と言っているそうだから、そうするとこの写真は、
明治10年頃の写真になる。
参考までに、明治37年に撮影された64歳の「おりょう(龍子)」の写真が三枚目の写真
だ。
しかし、この田中家の集合写真に写っている女性の髪形は、よく見ると庇髪になってい
る。
庇髪は明治35年頃から始まり、明治37年には一般に「二百三高地」と云われ流行した。
ということは、・・・この田中家の集合写真は、明治35年頃以降に撮影された写真であ
ることがわかる。
従って、明治37年に撮影された64歳の「おりょう(龍子)」の写真と比較すると、一目
瞭然だが、この田中家の集合写真に写っている女性は別人ということになるだろう。
四枚目の参考写真はおりょうさん(楢崎将作の長女)の実の妹(楢崎将作の三女)で、
菅野覚兵衛(前列左)と結婚した「きみ(起美)」さんの写真(前列右端)だ。
実の妹だけに晩年のおりょうさんの写真と比較しても、よく似た容姿の女性であること
がこれでわかる。
僕はおりょうさんの若い頃の写真が存在するならば、この「きみ(起美)」さんのよう
な女性の写真だと考えている。


深川芸者 おまつ

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芸者とは宴席において三味線などの遊芸で興を添える職業女性のことをいうが女郎で
はない。
だから、原則としては売春はしない。
芸者の中でも、特に深川の芸者は江戸時代から粋で気風が良いので評判が高かった。
深川が江戸の東南(辰巳)に位置した為、深川の芸者は辰巳芸者とも呼ばれた。
辰巳芸者の詳細は下記をご覧くださいませ。
http://www.asahi-net.or.jp/~QR2M-SKMT/f207.htm
さて、今回紹介する古写真はそんな深川芸者(辰巳芸者)の一人、「おまつ」さん
だ。
実は僕はこの深川芸者・おまつさんの名刺判写真が気に入っている。
だって、彼女の写真を見ると、美人でしっかりもので、元気がいいというまさに辰巳
芸者の代表的な雰囲気を感じさせる容姿だからだ。
深川といえば現在の江東区門前仲町を中心としたエリアで、僕が住んでいた江東区の
枝川や南砂からは近い場所だ。
というわけで僕はよく休日は門前仲町までお散歩している。
おまつさんのような粋な美人がいる店ならば、毎週飲みに通いたいところだが、残念
ながらまだ見つかってない。
芸者のことを調べてみると、成島柳北もいいけれど、漢文なので僕にはちょっと難し
いが、『女芸者の時代』(岩井良衛、青蛙房、昭和49年)という名著があって助
かっている。
つい最近入手した柳橋芸者の古写真で、「浪吉」と「小常」の写真があったのだが、
この本にちゃんとその略歴が書かれていて助かった。
もっともオリジナルの情報を書いたのは成島柳北で、明治十二年に雑誌「花月新誌」
に成島柳北が「新柳情譜」の連載していた。
この成島柳北は元幕臣で、明治になって新政府に仕えるのを断って、今でいう新聞、
言論界の人になった。
それでいて本人は花柳界に遊び、またその明治の花柳界について後世に書き残してく
れたことで名を残した。
この人も興味深い、不思議な人物だと僕は思う。


東京 王子 滝野川の茶屋

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江戸時代中頃から、日暮里・道灌山・駒込・飛鳥山・王子にかけては、江戸近郊の行
楽地・観光地だった。
そのうち、今の北区王子では、王子神社から音無橋の手前で音無川に降りると、そこ
の川沿いに音無親水公園がある。
この大判手彩色の古写真は、東京王子の滝野川沿いの音無親水公園に昔あった料亭茶屋「扇屋」だ。
「扇屋」は慶安元年(1648)に、初代弥左衛門が農業のかたわら王子稲荷の参詣者を
相手に掛け茶屋を開いたのが始まり。
文人墨客や商人など町人を客とする料亭として繁盛した。
落語「王子の狐」の舞台にもなった。
隣には弥左衛門の兄が経営する「海老屋」があって、こちらは武士相手の料亭を開い
ていたという。
残念ながら現在の「扇屋」はビルに建て替えられて、居酒屋、料理店、歯医者などの
入った雑居ビルになっている。
名物だった「釜焼き(卵焼き)」は事前に予約しておけば、このビルの左手の卵焼き
の売店で、買えるらしい。
近くには、王子七滝、王子稲荷、お花見で有名な飛鳥山公演、澁澤栄一記念館なども
あるので、僕も何度かここに散歩に行ったことがある。
これを書いていたらまた王子に散歩に行ってみたくなった。
北区王子の歴史については下記もご覧ください。
http://www.kitaku.info/core/sangyo-bunka.htm


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