Archive for 6 月, 2008

東京 陸軍省

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さて、蛇足になるが、皇居前広場を馬場先門から有楽町方向に馬場先濠を渡って、そ
こにあったのがご覧の陸軍省である。
この敷地は旧松平相模守の上屋敷跡で、今は敷地内には東京會舘、出光美術館、千代田丸の内郵便局、帝国劇場などがある。
帝国劇場は明治44年に伊藤博文、西園寺公望らのバックアップで、創立委員長・澁
澤栄一らの財界人が中心となって造られた明治を代表する西洋風(欧風)の大劇場
だ。
大正時代にはここで上映されたトルストイ原作「復活」の主演女優・松井須磨子の
「カチューシャの唄」が大ヒットした。
もっとも僕は帝国劇場には入ったことも無いので、何の思い出もない。
陸軍省についても何も知らないので、興味のある方は勝手に調べてみてくださいま
せ。
さて、明治維新から先の大戦までの日本の歴史について調べてみると、大正デモクラ
シー以降の日本の政党政治が党利党略に走って、政治の無策で日本経済が世界恐慌の影響もあり、うまく機能しなくなったことがよくわかる。
第二次世界大戦後、アメリカのGHQの占領時代を経て、日本は再生したが、その後の
官僚政治が制度疲労を起こし、低成長時代の国民ニーズとうまく合わなくなってきて
いるような気がする。つまり高度成長時代の富の分配から低成長時代の負の分配にう
まく移行していないのだ。
そのため今後も続く高年齢小子化時代の医療、年金の財源が足らず問題になってい
る。
まるでそれは同じような財政難だった徳川幕府の末期と瓜二つだ。
国内経済の活路を海外侵略による新たな市場の確保に求めるようなことはもうできな
いが、大都市と地方の格差についても何かいい方策を見つけなくてはならない。
いくら地方に高速道路や地方空港、新幹線を作っても地方の人口が増えるわけでも、
大企業が増えるはずはないのだから、そんなことに国家予算を使うより、地方に財源
を委譲して、何々県は教育制度日本一の県とか、関税なしの県とか、医療日本一の県
とか、高齢者福祉日本一の県とか、大都市から地方へ移住したくなるような特色ある
県にした方がいいような気がする。
県単位が無理ならば早く道州単位の国家に変えた方がいいのではないだろうか。
少なくとも高速道路にお金を使うより、地方の産物をPRするCM広告予算に毎年、どか
んとお金を使った方が地域の産業活性化に有効ではないだろうか。
また、テストケースとして、北海道、東北地方、四国全県、九州全県、沖縄地方だけ
でも先に道州制に移行してみてはどうだろうか?
駄目だったら元に戻せばいいのである。
僕は市町村の平成の大合併の後は、県単位の大合併の時代のような気がする。
中央集権から地方分権へ、そういう日本に活路を見出したい。


東京 宮城二重橋 宮城正門

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二重橋は鉄橋が木橋だった頃に橋桁が二重に組まれていた事に由来する。
正門前の橋を二重橋と思っている人が多いが、手前に見える宮城正門前の橋が正門石橋で、その奥に見える鉄橋が二重橋だ。
それぞれ正式名称は、西の丸大手橋と西の丸下乗橋という。
右手奥に見えるのは伏見櫓(西の丸書院二重櫓)で、この櫓は京都の伏見城から移築
されたもの。
この古写真は以前にも紹介したと思うので、今回は皇居前広場について書こう。
ここは戦前は宮城前広場と呼ばれ、戦後、皇居前広場と呼ばれるようになった。
昭和27年にはここで「血のメーデー事件」がおきた。
この広場の南東にある楠正成像は高村光雲の作だが、実は馬は後藤貞行の作で昭和30年に作られた。
この皇居前広場は江戸時代には西の丸下といい、老中、若年寄の役宅や有力大名の屋敷があった。そのため「大名小路」ともいう。
明治維新後は新政府に接収され陸軍や警視庁の用地として使われていた。
前回の東京鎮台もここにあったのだが、この鎮台の裏にあった屋敷、松平下総守の上
屋敷が明治になって岩倉具視の屋敷になる。
この北にあったのが松平肥後守の上屋敷。
幕末に京都守護職として活躍したが、戊辰戦争の悲劇は有名。
こんな調子で僕はいつも東京の町をお散歩しているのだが、文学ネタなどテーマを変
えれば、同じ場所を歩いても観る視点が変わり楽しめる。


東京鎮台

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鎮台はフランス陸軍に範をとった陸軍編成で、当初日本における役割は国内の治安維
持だった。
そのため、平時の編成としては鎮台のみ置き、戦時には機動性に欠ける鎮台を旅団
(明治18年以降は師団)に臨時改組することにした。
東京鎮台はそれまであった東山鎮台(石巻)、西海鎮台(小倉)を廃止して、明治四
年八月に設置され、歩兵第1連隊が所属し、当初は御親兵から転じた者と、士族から
の志願兵で編成された。
このとき他には東北鎮台(石巻)、大坂鎮台、鎮西鎮台(熊本)が設置されている。
初代東京鎮台司令長官は三浦梧楼である。
東京鎮台営は当初は皇居外苑の旧幕府歩兵屯所にあり、馬場先門前に東京鎮台騎兵隊が、日比谷に練場が置かれたが、後に六本木に移転した。
移転先は旧防衛庁跡地・赤坂中学校・檜町公園で、この敷地は元は長州藩毛利家の藩
邸跡。
現在の六本木、東京ミッドタウンがその場所である。
また現在の皇居東御苑(旧江戸城の本丸と二の丸にあたるところ)は、明治維新後、
東京鎮台工兵作業場等に使われていた。
というわけで、ご覧の古写真は旧幕府歩兵屯所、旧安藤対馬守の上屋敷の建物と思わ
れる。
大名屋敷の玄関前がよくわかるいい写真だと思う。
先ほども書いたとおり、ここは現在は皇居外苑広場で何も無い。


東京 司法省

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司法省は、明治4年(1871)から昭和23年(1948)までにかけて日本にあった官庁
で、現在の法務省の前身にあたる。
主に、刑務所の管理や司法行政などを行っていた。
日本国憲法及び裁判所法の施行により、司法行政権を最高裁判所に移管し廃止とな
る。
桜田御門の前に建つ司法省の建物は、明治28年に建てられ、戦災で屋根と内部を焼失したが、後に保存復元されて現在も重要文化財として観ることができる。
ここは江戸時代は米沢藩上杉家の上屋敷だった。
そして直ぐ前に桜田御門があり、ここで井伊直弼は暗殺された。
桜田門外の変である。
この現場前に、後の司法省ができるのも何だか面白い気がする。
この辺は散歩してもそういい所ではないのだが、旧江戸城の濠沿いは気持ちのいい道
だ。
桜田濠、日比谷濠がまだ残っているせいだろう。
この司法省の隣りにあるのが日比谷公園で、御用屋敷と佐賀藩鍋島松平肥前守の上屋敷があった敷地になる。
ついでに書くと大岡越前守の上屋敷も司法省の敷地内、ちょうど東京高等裁判所の東
側にあった。
桜田御門の内側は今の皇居前広場で、二重橋を背景にはとバスツアーの記念撮影も行われていたのだが、今もやっているのか僕は知らない。
もう何十年も前に家族で田舎の祖母が上京した時に、はとバスツアーで東京案内をし
たのだが、その時にここで記念の集合写真を撮った思い出がある。
その父母も祖母も亡くなってしまったけど、家族アルバムに貼られた集合写真は今も
探せばあるはずだ。


東京 外務省

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地下鉄霞ヶ関駅を下りて、三年坂を国会議事堂の方へ向かうと右手が現在の国土交通
省、左手が外務省となる。
国土交通省は江戸時代は芸州(広島)松平安芸守の上屋敷跡で、一般に判りやすく書
くとあの忠臣蔵の浅野内匠頭の本家浅野家の上屋敷跡だ。
一方、今の外務省は松平美濃守(福岡藩黒田家)の上屋敷跡になる。
もっとも明治時代以降、外務省のあった場所はよく変わっているのだが、この古写真
の外務省は霞ヶ関一丁目でいいと思う。
近年、大蔵省が財務省に名称が変わるなどしているが、外務省だけは明治二年以降
ずっと外務省のままの名称となっている。
まぁ、古いことが好きな僕としてはそれでいいと思っているのだが、きっとすごく保
守的な官庁(組織)のような気もする。
この霞ヶ関一帯は諸官庁の建物だらけなので、あたり前だけど散歩していても面白く
ない場所だ。
また、こういった古写真は貴重な資料ではあるけれど、写真としては面白くない。
(建築関係の皆様ごめんなさい)
江戸東京の町は中央区、墨田区、江東区は別として、坂道の多い都市で、これも実際
に歩いてみるとよくわかる。
地方に住んでいると交通の利便性が悪いのでどうしても車やバイクなどをよく利用す
る事となる。東京の場合、交通の便はいいのだが、地下鉄の乗り換えも含めて歩くこ
とが多い。
そのため、始めて東京に住む事となった僕の友人はくたびれるとよく愚痴をこぼして
いる。
また慣れないと地下鉄の駅から地上に出ても、一瞬ここはどこ?といって迷うことに
もなる。
風景が一変するような高層ビルが建設されることもその原因だが、霞ヶ関も最近は建
設ラッシュでどんどん新しい官庁のビルが建設されている。
新しい議院会館などはそのいい例ですね。
こうしてまた東京の空は高層ビルに犯されて、地上を歩く僕たちから風景をなくして
ゆくのだ。


国会議事堂 貴族院

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意外と知られていないのだが、明治時代に最初に国会議事堂ができた場所は今の国会の場所ではない。
今回の古写真はそんな最初の国会議事堂・貴族院の写真だ。
貴族院とは旧華族を中心とした勅選の議員が所属する議院で、今の参議院の前身にあたる。
国会議事堂の歴史については下記などをご覧になってくださいませ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BC%9A%E8%AD%B0%E4%BA%8B%E5%A0%82#.
E6.AD.B4.E5.8F.B2
この古写真は建物のデザインをみるとどうやら明治24年10月に竣工した第二回仮議事
堂のようである。従って写真はそれ以降に撮影されたことが判る。
第一回仮議事堂、第二回仮議事堂も、内幸町(現・霞が関一丁目、現在の経済産業省
庁舎付近)に仮議事堂が建設された。
昭和11年2月26日に二・二六事件が起こるが、この時にはまだ新しい国会議事堂は完
成していなかった。(完成は昭和11年11月7日)
さて、それはさておき、現在の国会議事堂に附属する形で国会図書館がある。
僕は若い頃に仕事の関係で調べ物をするために初めて国会図書館に行ったのだが、まさか後年、何度もここに調べ物をするために通うことになるとは夢にも思わなかっ
た。
地下鉄の関係で国会議事堂前駅で下りると、ちょうど今の国会議事堂裏と議院会館の
間の通りを歩いて国会図書館に行くことになる。
国会図書館は大きすぎて資料請求しても待たされることが多い。
そのためここに来るとたいてい一日がかりということになる。やれやれ。
近くには首相官邸、自由民主党本部もあるので周辺の道路はいつも警察官がいっぱい
だ。
ここは江戸時代は真田信濃や松平安芸の大名中屋敷などがあった場所で、今の憲政記念館がある場所は井伊掃部頭邸跡になる。
幕末に井伊直弼はこの屋敷を出て、桜田濠沿いに桜田御門に向かい水戸浪士たちに暗殺されてしまうのだが、現場に行くとよくわかるが本当に屋敷を出てすぐに襲われた
という距離である。
しかも当時も警護の井伊家の家来はたくさんいただろうから、いくら不意をついたと
はいえ、よく暗殺できたと思う。


大阪 松島遊郭

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日本各地の有名な遊郭の古写真も数多く残されている。
今回ご紹介するのは大阪の松島遊郭の古写真だ。
遊郭の前に並んでいる人力車がなんだか今の高級料亭の前に並ぶ黒塗りのハイヤーを思い出してちょっと面白い。
揃いの提灯が飾られているところを見ると、お祭りかあるいは戦勝祝のような国民的
な祝い事があった時のような気がする。
写真の左端の遊郭の二階の欄干が西洋風なのも面白い。
松島遊郭は、まず幕末の1868年に川口居留地近くに松島町ができて、その翌年に松島遊郭が誕生している。
その後、大阪の代表的な繁華街として繁栄を極めたが、1945年の大阪大空襲でほとん
ど壊滅してしまった。
その後、東京の吉原のように再び復興したが、1958年、売春防止法施行により公的な
売春施設としては一応廃止となった。
これ以後は、料亭街「松島料理組合」ということになっているが、吉原と同じように
料亭の仲居との自由恋愛との名目により営業形態はそれほど変わっていない。
でも、たしか大阪府は条例でソープランドを許可していないはずなんですよね。


東京 吉原遊郭

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江戸時代、江戸の町には一日で千両のお金が動く場所が三つあった。
一つは日本橋にあった魚河岸で、ここは現在、築地に移転して築地市場となってい
る。次の移転先は豊洲の予定だがまだ反対も多いのでもうしばらくかかることだろ
う。
もう一つは両国橋の西にあった富沢町で、ここでは主に古着を扱っていた。
最後の一つが吉原である。
札差や大店の主人から大名、旗本、御家人まで金さえあれば、この吉原でこの世の極
楽を男たちは楽しんでいた。
まぁ、いわば性(セックス)のテーマパークである。
それは明治維新後の明治の世になっても変わらず、遊郭もご覧の古写真のような壮麗
な西洋建築の建物になって益々繁栄していた。
その後、この町も売春禁止法や新風営法などの時代の変化に合わせてその形態を変化させていったが、その実態は今でもソープランド街として変わってはいない。
まぁ、紀元前何千年も前から最古の職業として売春はあったのだから、今後も変わら
ないのだと僕は思う。
それにしてもこの建物を見ていると「すごーくお金が掛かる場所なんだろうなぁ」と
僕はため息をつくばかりである。
長崎の丸山、京都の島原、江戸の吉原が有名だが、平成の世になった今はどこが有名
なのだろうか。
やっぱり吉原、雄琴とか岐阜羽島なのだろうか。


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