Archive for 4 月 20th, 2008

東京のこと その二

慶応二年の秋にそれまで大坂にいた内田九一は江戸に移り写真を撮影していた。
幕府崩壊の時代の変換期、慶応四年三月にさらに横浜馬車道に移って写真館を開業、
世の中が落ち着く明治二年には、横浜馬車道の写真館を支店として残し、浅草大代地
に移転してここを本店の写真館とする。
それ以後、明治八年二月十四日に亡くなるまでの僅かな間、明治初期の東京の風景を
撮影している。
上野、浅草、江戸城周辺、芝増上寺、隅田川周辺とまだ江戸の名残を色濃く残す東京
の町は、内田九一の手によって一枚の浮世絵のような風情で、写真撮影されている。
内田はこれらの風景写真のネガを複写して、他の写真師に売っていたため、後年、彩
色された横浜写真のアルバムの中に、元は内田九一が撮影した風景写真が混在していることが多く見られる。
近年まで僕のような内田九一の研究者がいなかったため、そのことがよくわからな
かったのだが、僕がブラックの「ザ・ファー・イースト」(横浜の外国人向け新聞)
に掲載されている写真を詳細に分析したりして、それがきっかけで横浜写真と一般に
言われている古写真アルバムに掲載されている風景写真分析を見直し、この中に元は
内田九一が撮影した風景写真が多くあることがわかってきた。
その理由も内田九一が自分が撮影した風景写真のネガを他の写真館に販売していたからだと判明した。
明治初期の東京で内田九一は、横山松三郎、清水東谷と並んで一流の写真師と評判
だった。
そのため当時の明治新政府の高官たち、皇族、公家、華族、実業家、吉原の一流花
魁、新橋、柳橋の人気芸者たち、歌舞伎役者と、競って内田九一の写真館で写真を
撮ってもらいにいった。
そのため内田九一の写真館の売上、収入も相当なものだった。
内田九一はそのうちに「隅田川に内田橋を架けてやる」と豪語していたという。
そんな内田九一も肺病、おそらく肺結核と思うが、明治八年二月十四日に享年三十二
歳で亡くなったしまった。
内田には子供がいなかったため、内田九一の直系は絶えてしまったが、幸いなことに
内田九一の本家筋で従兄弟の内田酉之助が内田九一の弟子だったこともあり、平成の
今日までその技術、センスは大阪の内田写真株式会社に連綿として継承されている。
幕末明治初期の名だたる写真師たちの後継はほとんど絶えてしまっただけに、このこ
とは日本の写真の歴史の中で奇跡に近いことだと僕は考えている。