幕末・明治初期の写真師・内田九一の没後と、その妻・おうた
長崎で生まれ、写真術を習得し、後に明治天皇を撮影した幕末・明治初期の有名な写
真師・内田九一は明治八年二月十七日暁に、その才能を惜しまれながら三十二歳の若
さで肺病のため死去した。
数年来、肺病にかかり吐血することも度々であったという。
おそらく二月十七日通夜、十八日葬儀が行われたのであろう。
そして翌明治八年二月十九日、王子大字堀の内字郷戸、松本順(良順)の抱え屋敷内
の松本家代々の墓地に埋葬された。
内田九一が亡くなった後、遠縁の娘・馬田良子を養女にして、この良子に婿(森總
一)を迎え、二代目・内田九一とした。
そして内田の写真館は、写真技術の巧みな長谷川吉次郎と古賀暁などの弟子たちが手伝い、内田九一夫人の「おうた」が後見となって、営業を続けていたが、徐々に経営
もうまくいかなくなってしまい明治十四年に廃業(倒産)してしまったようだ。
明治十四年九月三十日、内田九一と生前から交流があり、当時有名な写真師だった北
庭筑波が内田九一の浅草大代地の写真館を購入して、「旧内田舎」として翌十月一日
より再開業した。
北庭筑波は「九一の名跡が絶えるのを惜しんで再興した」のだという。
しかし、この北庭筑波の「旧内田舎」も明治十八年に廃業となってしまった。
内田九一の妻だった「おうた」は、明治十三年頃に蛎殻町の米商人島田慶助という男
といっしょになり、内田九一の門人・山際長太郎を伴って大坂順慶町三丁目に移転し
た。
大坂順慶町は以前、大坂時代の内田九一が開業していた町で、「おうた」は大坂で芸
者時代に内田九一と出合い、いっしょになっている。
そして、「おうた」は順慶町心斎橋東(順慶町三丁目)に写場を設け、写真材料商も
兼業していたが、約十年の後、明治二十四年頃にはすっかりこの「おうた」の「内田
寫眞館」の名跡も絶えてしまい、その後その消息も聞かれなくなったという。
そのことは明治二十四年の写真で写真台紙裏に「東京横浜内田九一製」とあるもの
に、写真表の下に右から左へ「大坂順慶町三丁目 東京内田支店」と浮き文字のある
ものがあることから、明治二十四年頃までは営業していたことからわかる。
「おうた」については『いろは新聞』の記事に、今の週刊誌的な内容でその私生活が
話題となっていたようだ。
その真偽は不明だが、奔放な女性だったように僕は思う。
ご覧の絵葉書はこの内田九一の妻・おうたと云われる女性の写真であるが、その真偽
は不明だ。
この絵葉書と同じ名刺判の古写真もある。
こちらは小沢健志編『幕末 写真の時代』(筑摩書房、ちくま学芸文庫)p236に
掲載されている写真187「内田九一夫人 内田九一撮影 明治初期 鶏卵紙」を参
照してください。
参考書籍・新聞記事
小沢健志編『幕末 写真の時代』(筑摩書房、ちくま学芸文庫)
森重和雄著『幕末・明治の写真師・内田九一』(内田写真株式会社135年記念誌、平
成17年)
『東京日日新聞』明治八年二月十八日、「寫眞師内田九一歿す」
雑報
○有名なる寫眞師内田九一氏は、昨十七日の暁きに病死したり、行年三十二。明十九
日王子堀の内村郷戸松本順君の抱え屋敷内の墓地に埋葬する積りの由なり。此九一氏は長崎の出生にて、幼くして父母に離れ、伯父吉雄圭斎と云ふ医者の手に養われて人と成り、弱冠の頃より寫眞の道に志ざし、維新以来は追々と繁昌し、遂に主上の竜影
をも其手にて写し奉り、其業に工なる、遍ねく人の知る所なり。その人と為りや廉直
洒落の性質にて、交わるには信切を旨とし、世間同業の寫眞師にも力を添へ、助けを
成したる事少なからず。数年来肺病に罹りて、吐血する既に四五度に及び、昨冬この
かたは愈々肺労と成りたり。己れも兼て其早世すべきを悟り、門人中にて技術に工な
るもの二人を選みて、其業を嗣がしむるの策を定めたれば、宮内省の御用を初めと
し、一切の事ども九一氏の病中も更に差支なし。故に此後とても此両人にて、先師の
名を落さぬ様に繁昌するに疑ひなし。併し九一氏ほどの勉強して、一家を建て一業を
開きさる人を、壮年にて死なしめしは、惜むべきの至りなり。
明治八年二月十九日の『読売新聞』の記事
写真師の内田九一先生は久々病気にて今月十七日に死なれました
『いろは新聞』明治13年4月23日、「寫眞師内田九一の後家乱行の事」
思ひ出しては寫眞を眺め、なぜか撮影(しゃしん)は物いはぬ、實やけふは何月何
日、未世盛りに相果し亡夫九一が命日、暮行月日も七年餘り、弔ふ後家と内田の門
人、回向正眞紙採を、高橋(由一)さんの油絵に、豫て頼みはせぬ者を、魂ひ込むる
寫眞の手練、名誉の餘功もあるならば、孀婦(ごけ)よくたつたと一言の、お声が聞
たい聞たいと、撮影の前で口説でも、十萬億土と娑婆の隔絶、開化の御世に貞節はな
いと、自由の権を振廻す、女天下の則天皇后、豊臣の淀君、近くは木戸口の開放し、貪客の優書生を閏門へ引入れて、「翠」帳「紅」閏にお巫山戯なさる、院(浮雲い)淫乱後室の顰に傚ふ、浅草代地の西洋家屋、コロジオンの匂ひを麝香で消す後室どの、本夫は先年うた形の泡と消た、其後に門人がお伽の交代、押勝寵衰へて道鏡盛んなり、夫さへ残らず喰飽きて、近頃出入の女義太夫竹本綱春の媒酌で、昨今空米相場営業停止不服に付、既に上告にも及ぶべき発議人、高橋お伝に関係の穴倉佐七郎が子分と聞へし、蛎殻町の米商島田慶助といふ強尻と、いつの間にやら「出来」合て、今はふたりが仲買も、「引」にひかれぬ「本場」の「昂低」、傍の「停止」も聞かばこそ、後家は島慶を追々「貝占」、子息の總一が家に居ては思ふ様には快楽まれずと、此頃勤めて大坂におし下し、その後は誰憚らず二階住居、彼慶的を昼夜引入れ、硝子を焼かぬ日はあれど、お顔見ぬ日はないはいなと、折節綱春が取巻で、川長あたりへ艀けるので、後家帳株張の門人達がボヤ付、春気の浮和浮和話しは五圓が有つたら又此頃、併し後家さんはツキが悪いから、罰が當らなければよいがネー看客(みなさん)。



