Archive for 4 月, 2008

エロい古写真

 

今と同じで実は古写真には、女性のセミヌード写真やヌード写真、セックスしている
男女の写真、はては女性性器(おまんこ)のアップ写真も存在する。
もっともそういった古写真は江戸時代の危な絵、例えば葛飾北斎、歌川國貞、歌川國
芳、鳥居清長などが書いて残した浮世絵の春画と同じだ。
また、写真術を学んだ初期の写真師たちも基本的には男だから、最初に撮影してみた
いと思うのは美しい女の裸(ヌード)であるのも当然のことである。
また、商品としての写真としても、日本人、外国人が高いお金を支払ってまで買いた
い写真は、美しい日本女性の裸(ヌード)写真だった。
男はいつの時代でもスケベなのである。
だいたい趣味で自分で撮影、現像、焼付け(紙焼き)できるならば、今でもエッチな
写真を撮影している男たちは非常に多いと思う、僕でもそうする。
最近では携帯電話による女性のスカートの中の盗撮、デジタルカメラで撮影した女性
のヌード写真、女性性器(おまんこ)のアップ写真などもインターネットを見ればよ
くわかるが氾濫している。
僕は古写真でもこういう写真を特別に集めたり、調べたりしているわけではないが、
それでもちゃんと見るようにしている。
参考書籍としては石黒敬章編『明治期のポルノグラフィ』(新潮社)という本をご覧
ください。
日本髪の明治の女性たちのフルヌード写真は、よく見ると胴長短足で、頭部が体と比
較して大きいので、全体のバランスが悪く見える。
これに比べれば最近のアダルトビデオ、DVDに登場する女の子たちの方がはるかに美
人でスタイルもいい。
しかし、これらの明治期のポルノグラフィ古写真も、じっくりと眺めてみれば江戸時
代からの日本女性の典型的なスタイル(体型)で、夜毎、当時の男たちはこういう女
性たちとセックスをしていたのも事実なのである。
「春画古写真」とも言うべきこららの古写真は、日本女性の研究材料として今後は女
性研究者が扱って欲しいと僕は思う。
というのも男の研究者だと下手をすればきっと普通の人は変態みたいに思われますよ
ね。

前回の回答:
この古写真に写っているのは旧江戸城の吹上の庭にあった吊り橋の写真だ。
撮影時期は明治五年頃で、撮影者は内田九一。
吊り橋の欄干右側にいる帽子(パナマ帽)を被った人物が、もしかすると内田九一自
身かもしれない。
というのも内田九一はこの帽子を被ってよく自分の写真に登場するからである。
もっとも写真の中に内田九一自身がいることから、実際に撮影したのは内田九一の弟
子たち、長谷川吉次郎、助手・古賀暁だと僕は思う。


古写真研究

3

 

 

 

 

 

 

 

 

 

俗に古写真といわれる時代はいつまでかというと、僕はコロタイプ印刷による写真集
が出現する前まで、湿版(アンブロタイプ)写真、鶏卵紙による名刺判写真(複写紙
焼き)中心の時代だと考えている。
まぁ、大雑把にいえば幕末から明治期までだ。
古写真の研究では初期の写真師、鵜飼玉川、上野彦馬、下岡蓮杖、内田九一、横山松
三郎、清水東谷、田本研三、中島待乳、北庭筑波などが有名だが。
堀江鍬次郎、中島鍬次郎(中島仰山)、古川俊平、富重利平、上野幸馬、市田左右
太、堀與兵衛などなど、まだまだ研究対象の日本の写真師たちは多くいる。
次世代の写真師・江崎礼二、小川一真、丸木利陽などを加えればさらに多い。
そんな彼らの足跡でもある古写真を眺めて僕は、誰に頼まれたわけでもなく、無償で
古写真を鑑定したり、特定しながら日々を過ごしている。
というのもこういった写真師たちが残した古写真たちが、まるで「俺たちがせっかく
こんな写真を撮影したのだから、後世の人々にちゃんと伝えて欲しい」といっている
ような気にさせるのだ。
一枚の古写真はそういった怨念にも似た魅力で語りかけてくる。
いつのまにか僕もその怨念(魅力)に絡め取られて、古写真、写真師の研究から抜け
られなくなってしまった。
一枚の古写真を調査するためには膨大な予備知識も必要となる。
いつから人力車が見られるようになったか、この町ではガス灯はいつからできたの
か、この建物はいつからできたのかなどなど、服飾、化粧、衣装、髪型などもあるの
でその予備知識を事前に知っていることが重要になるのだ。
勝海舟などの歴史的に有名な人物で、日記などの資料もある人物でも、その写真がい
つ撮影されたのかを特定するためには大変な苦労がある。
だけど、誰かがそれをやらなければいつまでも間違った情報のままで、その古写真が
諸書に紹介されて行く。
近藤勇の写真などはそのいい例だ。
もう一度、ここで繰り返して書くと、現存する近藤勇の肖像写真は二点で、どちらも
幕末に京都の堀與兵衛が撮影した写真だ。
撮影された場所も寺町仏光寺の堀與兵衛の写真館(写場)か、祇園にあった祇園支店
の写場の可能性が高い。
新撰組の谷三十郎も祇園にあった祇園支店の写場で撮影していることから、僕は近藤
勇の肖像写真は祇園にあった祇園支店の写場で撮影されたものと仮説している。
最近入手した、今回紹介する古写真は、元は内田九一が明治初年に撮影した写真の、
複写の名刺判写真だが、ご覧の皆さんはこの写真がどこで撮影されたのかわかるで
しょうか?
もちろん僕はすぐにわかったのだけれど、正解は次回に書くとしましょう。


東京のこと その二

慶応二年の秋にそれまで大坂にいた内田九一は江戸に移り写真を撮影していた。
幕府崩壊の時代の変換期、慶応四年三月にさらに横浜馬車道に移って写真館を開業、
世の中が落ち着く明治二年には、横浜馬車道の写真館を支店として残し、浅草大代地
に移転してここを本店の写真館とする。
それ以後、明治八年二月十四日に亡くなるまでの僅かな間、明治初期の東京の風景を
撮影している。
上野、浅草、江戸城周辺、芝増上寺、隅田川周辺とまだ江戸の名残を色濃く残す東京
の町は、内田九一の手によって一枚の浮世絵のような風情で、写真撮影されている。
内田はこれらの風景写真のネガを複写して、他の写真師に売っていたため、後年、彩
色された横浜写真のアルバムの中に、元は内田九一が撮影した風景写真が混在していることが多く見られる。
近年まで僕のような内田九一の研究者がいなかったため、そのことがよくわからな
かったのだが、僕がブラックの「ザ・ファー・イースト」(横浜の外国人向け新聞)
に掲載されている写真を詳細に分析したりして、それがきっかけで横浜写真と一般に
言われている古写真アルバムに掲載されている風景写真分析を見直し、この中に元は
内田九一が撮影した風景写真が多くあることがわかってきた。
その理由も内田九一が自分が撮影した風景写真のネガを他の写真館に販売していたからだと判明した。
明治初期の東京で内田九一は、横山松三郎、清水東谷と並んで一流の写真師と評判
だった。
そのため当時の明治新政府の高官たち、皇族、公家、華族、実業家、吉原の一流花
魁、新橋、柳橋の人気芸者たち、歌舞伎役者と、競って内田九一の写真館で写真を
撮ってもらいにいった。
そのため内田九一の写真館の売上、収入も相当なものだった。
内田九一はそのうちに「隅田川に内田橋を架けてやる」と豪語していたという。
そんな内田九一も肺病、おそらく肺結核と思うが、明治八年二月十四日に享年三十二
歳で亡くなったしまった。
内田には子供がいなかったため、内田九一の直系は絶えてしまったが、幸いなことに
内田九一の本家筋で従兄弟の内田酉之助が内田九一の弟子だったこともあり、平成の
今日までその技術、センスは大阪の内田写真株式会社に連綿として継承されている。
幕末明治初期の名だたる写真師たちの後継はほとんど絶えてしまっただけに、このこ
とは日本の写真の歴史の中で奇跡に近いことだと僕は考えている。


東京のこと

21

 

 

本業の仕事で知り合った作家の堺屋太一先生は、日本の歴史で一番面白い時代は、戦国、幕末明治初期、昭和だという。
同じく本業の仕事で知り合った漫画家の黒金ヒロシ先生は幕末だという。
(事実、黒金ヒロシ先生の近年の歴画は全て幕末をテーマにしている)
僕もこのお二人の先生方と同じ意見ではあるのだが、やはり現実の風景、人物が古写
真などで確認できる幕末、明治初期が、一番面白いと考えている。
だから古写真の研究が面白いということになるのだが、同じように写真資料、映像資
料が数多く残されている昭和も最近面白いと思うようになった。
まぁ、正確にいうと、広い意味で明治後半、大正、昭和前期が面白い。

東京という大都市が江戸の面影をどんどん無くして変わってゆき、関東大震災で一度
崩壊するものも逞しく再生してゆく。
もちろん、その後東京は先の大戦(第二次世界大戦)の東京大空襲で、一面焼け野原
となり滅んでしまうのだが、不死鳥のごとく再び再生してゆくのだ。
この間も写真資料、映像資料は数多く残されていて、見ていて面白い。
明治期の国内勧業博覧会の写真、大正デモクラシー時代の東京の写真、昭和初期の例えば22.6事件の写真、ニュース映画映像などなど、その時代その時代の歴史的な
風景は感慨無量なところがある。
昨今では映画「三丁目の夕陽 オールウェイズ」の影響もあって、昭和30年代の東
京の写真や映像なども大人気だ。

実は東京は三度、大きく変わっている。
それは東京オリンピックの開催を控えて、首都高速道路、新幹線などの社会資本が整
備されたせいなのだが、このときはそれまでの東京の上に重ねるようにして変わった
ため、明治維新、関東大震災、東京大空襲(第二次世界大戦)の時と比べれば、激的
な変化ではないだろう。
さて、ずいぶん長い前置きになってしまったが、こんな東京の姿を最初に写真撮影し
て残してくれた写真師がいる。
それが明治天皇と昭憲皇太后を初めて撮影した写真師・内田九一なのである。


芸者

32

 

 

 

 

 

 

 

 

1

koturu

 

 

 

 

 

 

 

明治なるとよく売れた名刺判写真といえばご覧のような、新橋、柳橋、吉原といった
東京の遊興地の芸者の写真が多い。
今でいえばタレント、アイドルのブロマイド写真のような感じで、東京土産の一つと
して土産屋や写真館などで簡単に購入できたようだ。
東京に出てきて宮城などの名所旧跡を見て廻り、時間もお金もないので新橋や柳橋な
どの料亭で芸者を呼んで遊ぶことはできないけれど、せめてその気分だけでも国の土
産話にしたいということなんだろうと思う。
「俺は花の東京でこんな美人を呼んで遊んだんだだぜ」ということだ。
現在でいえば銀座、赤坂、六本木の高級クラブの美人の写真を土産にしたということ
だろうか。
平成の世になっても髪型、化粧、洋服とテレビ、雑誌を通じてタレント、モデルの様
子が、発信源となって地方の女の子たちに影響を与えている。
江戸、明治以降の東京中心の、中央集権的な芸術文化、学問教育、政治、経済、交
通、情報などの一極集中化は今でも続いているのだ。
おそらくそれは道州制が導入されても、今後も東京が首都であるかぎり続いてゆくと
僕は思う。
日本第二、第三の都市、大阪、名古屋でさえ、そこに住んでみるとよく判るが、東京
に比べたら単なる一地方都市に過ぎないのが現実だ。
最近、僕は古写真関係の参考資料から、明治、大正、昭和初期の東京の本を読んでい
るのだが、東京という都市は昭和三十年代は700万の人口から、1200万の人口
に増えても、その本質は江戸を基本にしていることがよくわかる。
つまり、1603年の徳川幕府創設以来、およそ400年間、日本の首都であるからなの
である。
このまま行くと京都が首都だった時間を超えてしまうような気がする。
また、神奈川、埼玉、千葉の首都圏で2500万から3000万という人口は、日本
の総人口の四人に一人が首都圏にいるということで、これでは地方がいくら頑張って
も無理である。
高速道路も地方空港、新幹線をいくら整備しても、人の流れは全て東京で地方はます
ます人口低下、疲弊してゆくばかりというような気がする。
では、地方はどうすればいいのか?
僕はこれからの地方は、定年後の晩年が過ごしやすい環境を作る地方が生き残れるよ
うな気がする。
家賃が安く、高年齢の養護医療体制、文化芸術・スポーツの受容体制が充実している
地方がいいのだと思う。
高速道路、新幹線を誘致しても、ただ人が通り過ぎるだけの惨めな状況だけだと思
う。
大切なのは人が死ぬまで、死ぬ時はその土地にいたいという、地方都市の魅力つくり
のような気がする。
そういう観点で苦しい地方財政の状況からでも、少しずつ昔の風情を復元している熊
本城や金沢など試みは評価したい。
これとは別に観光客目当てで、歴史的な根拠も無い復元天守など造るばかな地方もあ
るが、そういうことをやる首長は万死に値すると僕は思う。
だって、そんなところにわざわざ見に行きたいとも、住みたいとも思わないでしょ
う。

 


御茶ノ水 神田上水懸樋(万年樋)

01

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ご覧の古写真は水道橋から神田川に架かる神田上水懸樋(万年樋)を、今の三崎町側
からから東方に見た古写真だ。
従って向こう側の坂道は現在の外堀通りとなる。
手前右側に人力車が写っていることから、当然、明治初年に撮影されたこともこれで
わかる。
左手奥の木々が見える辺りは後に順天堂病院(順天堂大学附属病院)となった場所に
あたる。
この先の現在の御茶ノ水橋、聖橋は明治以降に架けられた橋なので、江戸時代はな
かった。
順天堂病院(順天堂大学附属病院)のその先には湯島聖堂がある。
当時、この御茶ノ水界隈はご覧のような自然が豊かな景勝地で、水も清く子供達は水
遊びに、大人達は中国の水墨画のような気持ちで、この景色を眺めて楽しんでいた。
この古写真では写っていないが、右手の奥は駿河台で、元和二年(1616年)駿府
にいた大御所・徳川家康が亡くなって、駿府詰めだった畑本達が多く移り住んだこと
から、駿河台と呼ばれるようになる。
この高台からは富士山がよく見えるので畑本たちもこの土地をたいそう気に入ったと
いう。
「天下のご意見番」大久保彦左衛門もこの駿河台先の、現在の御茶ノ水駅近くに住ん
でいた。
その屋敷は現在の杏雲堂病院のあたりにあった。
さて、歴史的な薀蓄はこれくらいにして、この古写真でいえば右手に「アテネフラン
ス(日仏会館)」がある。
日仏の文化、友好のための東京の拠点の一つで、日仏の映画作品の上映会なども行われている。
僕は近いうちにここが(正確にいうとここに務めているフラン人のP氏が)所蔵して
いる幕末明治初期の古写真を見に行こうと考えている。


最後の将軍が残した写真 徳川慶喜

01

02

 

 

 

 

 

 

僕が古写真について初めて興味を持ったのは、今からもう二十年も前のことだ。
たまたまある人の紹介で、最後の週軍・徳川慶喜のご子孫である徳川慶朝さんとお会
いした。
徳川慶朝さんといろいろお話ししていたら、徳川慶喜が大政奉還後も長く生きて、趣
味の世界に没頭して生活していたことを教えていただいた。
そんな徳川慶喜が写真に魅了されて、多くの写真撮影を行っていたという。
慶朝さんは、これらの写真は松戸市にある松戸市戸定歴史館に依託保管されているの
で、見たければ紹介してくれるとはいう。
そういうわけで、慶朝さんの紹介で、僕は次の日曜日に写真を観に松戸市戸定歴史館
に行った。
松戸市戸定歴史館の学芸員・斎藤洋一先生にもその時に初めてお会いした。
そして、最後の将軍が残した写真が、幕末から明治初期の膨大な数であることにも驚
いた。

そこでその日以来、僕は徳川慶喜関係の多くの参考資料を読み漁り、大政奉還後の徳
川慶喜の姿をもっと多くの人に知って貰いたいと考えるようになった。
そこでさっそく企画書を作って、いろいろお願いして製作したのがビデオとDVD版の
「最後の将軍が残した写真 徳川慶喜」という映像作品である。
これは残念なことに全然、売れなくて製作資金も回収できずにビジネス的には大失敗
だったが、このソフトの製作のために当時最高の水準で写真素材をデジタル化し、後
にこのハードディスク(デジタルデータ)は松戸市戸定歴史館に寄贈したので、今で
もそれは貴重な文化資源の保存という点で大変いいことができたと思う。
このビデオ、DVD版「最後の将軍が残した写真 徳川慶喜」は絶版になってしまった
が、最近、貴重資料として高値で古書店などで取り扱われていた。
当時の正価の1.5倍くらいの値段でだ。
これには僕も驚いた。
後年、僕が入手したご覧の徳川慶喜の名刺判写真も、明治期に広く複写されて販売さ
れていた写真だが、被写体が徳川慶喜ということで高い値段となっていた。
この名刺判写真は現在、僕が寄贈して松戸市戸定歴史館にある。


石田英吉

13

 

 

 

 

 

 

 

4

 

 

 

 

 

 

 

ご覧の名刺判写真は、坂本龍馬の海援隊創設のメンバーで、後に秋田県令・千葉県知
事などの県知事職を歴任した石田英吉が写っている集合写真だ。
(前列左から三人目が石田英吉)
石田英吉の弟子が、後の外務大臣となった陸奥宗光。
この名刺判写真は、元は埼玉の古写真ハンター・青木さんが見つけて、後に僕が譲っ
ていただき、現在は僕が寄贈して京都の霊山歴史館に保管所蔵されている。
昨年、霊山歴史館で行われた特別展で一般にも公開、紹介された。
この名刺判写真は元々、医学生だった中村小市(毅策)氏がこの集合写真に写ってい
る人物の誰かから貰って、所蔵していたことが、名刺判写真を包んでいた紙からわか
る。
また、この紙に書かれた記述から、明治十三年の撮影と思われる。
撮影場所、撮影者(写真師)、写真館は不明だが東京の写真館のような気がする。
「東京市済世学舎(医学校)学生 明治十三年 中村小市(毅策) 中村藤次郎弟」
と、書かれていることからそう推定した。
何かご存知の方がおられればご教授いただきたい。
さて、この集合写真を眺めていると、明治維新、西南戦争と激動の時期を過ぎた明治
人たちの姿が誇らしげな表情で写真に写っているよな気がする。
平成の今に続く官僚の誕生である。
日本の近代化のために日夜、努力し続けた明治人たちは、私利私欲にまみれた今の平成の官僚たちをどう見ているのか、聞いてみたい気もする。
石田英吉の詳細については下記をご覧ください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E8%8B%B1%E5%90%89

 

 

 

 


Next Page »