Archive for 3 月, 2008

大坂城と名古屋城

大判手彩色古写真 大阪城 明治期

手彩色古写真 名古屋城 明治期

 

 

 

 

 

 

大阪城の古写真はいろいろあるけれど、たいていはご覧の玉造口(大阪城の南)から
北方向を写したこの風景だ。
これは現地に行ってみるとよく判るのだが、この写真を撮影するポイントが決まって
いて、誰が写してもほぼ同じ場所からカメラを構えるのでそういうことになる。
写真の石垣は今でも当然同じなのでそれが証明できるというわけだ。
幕末に撮影された洋式軍装の調練写真(四枚綴り)があって、僕はこの写真が大阪城
のどこで撮影されたのか調べに行ったのだが、大阪城公園内は浮浪者の青ビニール
シートのテント村のようになっていて、同行した先輩ディレクターの飯島さんが「大
阪城は昔も今も浪人の集まる城なんだね」と云ったのが面白かった。
これはもちろん大坂夏の陣、冬の陣のことと今の様子が似ていることを云ったのだ
が、青ビニールシートのテント村は僕には何だか中東の避難民テント村にも見えてし
まった。
それはさておき、お城の古写真も多く残っていて、お城の古写真だけを集めているコ
レクターもいるくらいだ。
二枚目の写真は名古屋城の古写真だけど、名古屋城の金のシャチホコは、明治期に
ウィーン万国博覧会やその後の内国博覧会などの出品されて、一時期、名古屋城には
金のシャチホコが乗ってなかったことがある。
そういう時期にも名古屋城の写真は撮影されていまして、撮影時期の特定がこういう
点からも推測できる。
最初の大阪城の古写真でいえば、右手奥の建物や木立の成長具合から、撮影時期tが予測できるのだが、普通の人はそんなことまで考えないですよね。
でもこういうことを考えることが古写真の魅力でもあるのだ。
オタクといえばオタクなことだけど。


長崎 浜町通り

大判手彩色古写真 長崎 浜町通り 明治期

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回の大判手彩色古写真は長崎の浜町通りの風景だ。
今でも浜町通りは長崎の繁華街で、僕も何年か前にこの通りを歩いたことがある。。
当時の浜町通りは、衣服に対する需要が高く呉服屋がたくさん並んでいて、土地が狭
いため商店の間口は狭く、京都の町家のように奥が深いつくりだった。
また、浜町通りには鼈甲の専門店が八軒もあったそうだ。
明治44年(1911年)頃の絵葉書には浜町商店街の「歳末大売り出し」の様子を
写した写真もあって、幕末、明治から長崎のメインストリートの一つとして今日にい
たっている。
僕の田舎の大分でもそうだが、今日本の地方では広い駐車場を持った大型郊外店舗の
出現で、駅前の商店街がシャッター通りとして寂れて、地元の商店街は崩壊しつつあ
る。
そのためかっての繁華街、商店街の風景もどんどん失われている。
人はバブル崩壊以後の十年を「失われた十年」というけれど、東京、大阪、名古屋な
どの大都市はともかく今でも地方は「失われた十年」が続いているような気がする。
また地方にとっての日本経済の景気波及の停滞は失業、離婚、犯罪の原因ともなり、
人びとの気持ちも荒廃させている。
僕は一枚の古写真からそんなことまで考えてしまった。
やれやれ。


「東京向島の桜」

 

大判手彩色古写真 東京 向島 茶店

大判手彩色古写真 東京 向島 明治期

 

 

 

 

 

 

 

ご覧の手彩色古写真は、東京向島の満開の桜の風景写真だ。
東京のお花見といえばもう一つの名所が向島の桜だ。
一枚目の写真に見える「エビスビール」の幡が面白いですよね。
この写真には別カットもあって、これは石黒敬章著『明治・大正。昭和 東京写真大
集成』のp369に掲載されている。
二枚目の写真は以前にも紹介した古写真だけど、隅田川沿いの桜並木は今でもあっ
て、僕の春のお散歩コース(隅田公園)の定番となっている。
こういう古写真も眺めているとほんわかとした気分になって楽しいものだ。
今ではここには「勝海舟」の銅像も建てられている。
本当は勝海舟が生まれ育ったのは本所両国なのだが、まぁ良しとしましょう。
向島の薀蓄を言えば切りがないのでやめにして、隅田公園の入口にあたる所には今は
アサヒビールの本社ビルがあるのだが、いくら斬新なデザインのビルとはいえ、あの
デザインではどう見てもビルの上に巨大な黄金のウンチが乗っているとしか見えない
と僕は思う。
デザイナーは「黄金の雲」をイメージしていると言ってるそうですが無粋ですよね。
さて、この隅田公園の入口から入って枕橋を渡ると旧水戸藩邸跡の日本庭園がある。
水戸藩の家臣で尊皇攘夷論を唱えた有名な藤田東湖は三年間、この水戸藩邸に幽閉されていた。
そのためこの旧水戸藩邸跡の隅田川寄りには昭和十九年に建てられた「藤田東湖正気歌碑」がある。
二枚目の写真に写っている橋は言問橋だ。
撮影ポイントは正確にはわからないが、言問橋の見え方から推測するとおそらく今の
桜橋の辺り、もっと言えば竹屋の渡し(待乳の渡し)があった場所辺りから隅田川の
下流方向を撮影したとみえる。
それにしてもこの隅田川沿いの桜並木は今でも大変美しい場所なのである。

当時の川柳をここで一つ

「向島出かけるひともさくらいろ」


「東京上野公園の桜」

 

大判手彩色古写真 東京 上野 茶店 自転車 明治期

 

 

  大判手彩色古写真     東京上野

 

 

 

 

 

手彩色古写真 東京 上野 精養軒前

 

 

 

 

手 彩色古写真 東京上野   精養軒前

 

 

ご覧の手彩色古写真は、上野公園内の満開の桜の風景写真だ。
東京のお花見といえば上野公園は今でもそのメッカの一つといえる。
僕も下っ端の頃は、会社のお花見の場所取りによく行かされた場所だ。
上野公園は元は上野寛永寺の境内だったのだが、明治維新の際に、上野戦争(彰義隊征伐)で焼け野原となってしまった。
明治に入って東京で初の市民公園となった。
お雇い外国人、ボードウィン先生の勧めによるものだが、困ったことに上野公園内に
建てられたボードウィン博士の銅像は、オランダ大使館より公園指定100周年を記念
して贈られたものなのだが、製作時の手違いにより実弟(元駐日オランダ領事)の写
真をもとにした像になってしまった。
今でもそれは見ることができる。
(1870年、医学校と病院予定地として上野の山を視察した蘭医ボードウィンが、公園
として残すよう日本政府にはたらきかけ、その結果1873年に日本初の公園に指定され
た。このことをもってボードウィンは、上野公園生みの親と称される)
一枚目の写真は手彩色絵葉書で、左の休憩所の後ろに見えるのが有名な上野の「時の鐘」だ。
松尾芭蕉は江戸時代に「花の雲鐘は上野か浅草か」と作句している。
もちろんこの上野の「時の鐘」は今でも上野公園に行けば見ることができる。
写真の右に見えるのは「上野の大仏」で頭の後ろに頭光があることから、明治二十五
年から明治二十八年頃の間に撮影された写真であることがわかる。


東京・「銀座通の馬車鉄道」 2

大判手彩色古写真 東京銀座 馬車鉄道

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ご覧の大判手彩色古写真は、「新橋方向ヲ望ム銀座通」の写真だ。
この手彩色古写真にも「鉄道馬車」が写っている。
前回の補足にもなるのだが、松山から東京に戻ってきた坊ちゃんが知り合いの紹介で
就職するのが、「街鉄(がいてつ)の技手」だった。
街鉄とは「東京市街鉄道」のことで、一般に都電のことをいう。
明治36年(1903年)に東京馬車鉄道が電化され「東京電車鉄道(東電)」が、品川~
新橋間を開業。
同年に「東京市街鉄道(街鉄)」が数寄屋橋~神田橋間を開業。
明治37年(1904年)に「東京電気鉄道(外濠線)」が土橋(新橋駅北口)~御茶の水
間を開業。
明治39年(1906年)にこの「東京電車鉄道(東電)」と「東京市街鉄道(街鉄)」と
「東京電気鉄道(外濠線)」が合併して、「東京鉄道(東鉄)」が成立。
さらにこの「東京鉄道(東鉄)」が後に「東京市電」となっている。
だから、坊ちゃんが「街鉄の技手」になったのは、明治36年から39年の間である
ことが、このことでわかる。
ここで「技手」というのは、辞書を引くと「1 官庁・会社などで、技師の下に属す
る技術者。2 旧制の官庁で、技師の下に属した判任官または判任官待遇の技術官。
ぎて。 」とあるので、坊ちゃんの場合、「東京市街鉄道で、技師の下に属する技術
者」になったという意味だろう。
「清の墓は小日向の養源寺にある。」と夏目漱石は小説「坊ちゃん」で最後に書いた
が、この養源寺は今の本駒込にあるお寺で、小日向にはない。
また「清のお墓」のモデルは「米山家の墓」だが、このお墓は夏目漱石の親友であっ
た米山保三郎という人の家のお墓だ。
米山保三郎自身は、漱石の小説「我輩は猫である」に出てくる「曾呂崎という男」だ
ということになっているが、このモデルが米山保三郎だ。
米山保三郎は明治30年(1897)5月29日、享年二十九歳で亡くなった。
親友の訃報を漱石は熊本で聞いて嘆いた。
こうして僕は一枚の古写真から次々といろんなことを連想して調べている。
さて最初に戻ってこの「新橋方向ヲ望ム銀座通」の写真を眺めていると、次に気がつ
くのは「鉄道馬車」の上に見える洋風の建物、塔だろう。
この塔は「京屋時計店銀座支店」の時計塔だ。
つまり、旧三和銀行のある場所にこの時計塔は建っていた。
だから、この写真の撮影場所は尾張町角、今の銀座四丁目の交差点のあたりから、新
橋方向を写したものだ。
この時計塔は明治九年から大正二年六月に取り壊されるまでここにあった。
また、新橋~日本橋間の「鉄道馬車」が開通するのは、明治十五年六月十五日だか
ら、この写真は、明治十五年六月十五日から大正二年六月までの間に撮影されたこと
となる。
さらに絞り込めば銀座の柳がご覧のように繁って並木になるのは明治十七年以降の話
というから、この大判手彩色古写真は明治十七年以降の明治期後半に撮影された「横
浜写真」と云ってもいいだろう。
それにしてもこの銀座の空の広さはどうであろうか。
東京にもちゃんと空があった時代が今ではとうてい信じられないが、少し悲しい気分
にもなる。


横浜「三渓園」の桜

大判手彩色古写真 横浜 本牧 茶店 明治期

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「人力車」、「横浜港」ときたので、三題話しではないが、今回は「サクラ」、それ
も「三渓園」の桜の古写真をご紹介したい。

写真の板塀に囲まれた場所が、横浜「三渓園」だと僕は思う。
ちょっと自信がないのだが、まぁ、今回は横浜「三渓園」ということにしていただき
たい。
それというのも実は正直に言うと僕はまだここには行ったことがないからだ。
横浜名所の一つ、「三渓園」は、横浜の実業家(生糸貿易)、「原 三渓(本名富太
郎)」によって横浜本牧に造られた日本庭園で、明治39年5月1日から一般に公開されていた。

「三溪園」は古くから梅の名所としても有名だが、この大判手彩色古写真は、観桜の
宴に訪れるご婦人(美人)を人力車に乗せてきた風情というところであろうか。
以前の僕は横浜写真はあまり好きではなかったのだが、最近、こういう手彩色古写真
を眺めるのが好きになった。
桜満開の広く青い空も見ていて気持ちがいい。
この横浜「三渓園」は今でもちゃんと横浜本牧にある。
だから今年は桜が満開の頃に僕も行ってみようと考えている。
「三溪園」については以下のHPをご覧ください。
http://www.sankeien.or.jp/history/index.html


東京・「銀座通の馬車鉄道」

1

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3

  

ご覧の大判手彩色古写真は、「新橋ヨリ銀座通ヲ望ム」写真だ。
この風景は後に絵葉書でもよく見ることができ、有名な銀座の風景写真となってい
る。
日本に電車が登場する前のわずかな間、軽便な都市交通機関として活躍したのが、馬
を動力にした鉄道「鉄道馬車」だ。
初の鉄道馬車営業として、明治15年(1882)6月25日に開業した「東京馬車鉄道会社」
は、目抜き通りの中央に4フィート6インチの軌道を埋め込み、新橋から上野、浅草を
結んで運行を開始した。
この東京馬車鉄道も明治36年(1903年)には電化され「東京電車鉄道」となる。

そして僕が思い出すのは夏目漱石の名作「坊ちゃん」だ。
「坊ちゃん」の最後は以下の文章で終わる。

「その後ある人の周旋で街鉄(がいてつ)の技手になった。月給は二十五円で、家賃
は六円だ。清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今
年の二月肺炎に罹って死んでしまった。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから
清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るの
を楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。」

ここでは「清の墓は小日向の養源寺にある」とされているが、元の原稿を確認してみ
ると最初は「清の墓は谷中の養源寺にある」と書かれていた。
そして先日、ついでがあってこの谷中の養源寺に行ってみると、このお寺には本堂裏
の墓地の右前方の木立の下に「安井夫人」に登場する安井息軒の墓があるのだが、そのすぐ傍には「米山家」のお墓があり、このお墓が清のお墓なのだった。
それにしても夏目漱石の「坊ちゃん」は何度読んでもこの最後の文章が心にしみる。
「死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋
めて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。
だから清の墓は小日向の養源寺にある。」


横浜「谷戸坂(やとざか)」から見た横浜港

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ご覧の大判手彩色古写真は明治期の「横浜の山手にある谷戸坂から横浜港」を見た写
真だ。
この古写真では右手の緑の左手に建っている洋館が、フランス領事館で、その左奥の
建物が 明治3年に開業したグランド・ホテル旧館、さらに左奥が明治23年に増築
されたグランド・ホテル新館になる。
このグランドホテルは明治3年、写真家ペアトにより開業されたが、後に大正12年
の関東大震災で倒壊してしまった。
撮影ポイントは谷戸坂の途中、やや坂下に近い場所から、横浜港を望んでいる。
谷戸坂(「やとざか」という)は、谷戸を貫いている坂の様子から谷戸坂と呼ばれ、
昔は「本牧十二天(本牧神社)」に詣でる道として知られ、人々が足しげく往来して
いた。
今は「港の見える丘公園」の高台の前に登って行く坂だ。
従ってこの写真が明治23年以降に撮影された写真であることが判る。
こういう手彩色の古写真は一枚一枚アルバムに貼られて、蒔絵などの豪華な意匠で写
真アルバムに仕立てられて、海外に数多く輸出された。
古写真の世界では通称「横浜写真」と呼ばれている。
この多くは横浜の日下部金幣の写真館で作成されている。
もちろん関西でも神戸、大阪の深沢貞の写真館などで多く作成されている。
また、オークションなどで出品される状態のいい写真アルバムだと、一冊300万以
上の価格で落札されることも多い。
横浜には現在でも谷戸坂ちゃんとあり、道の形態は今もあまり変わってない。
今でもちゃんと谷戸坂上からは横浜港が望めるし、かってフランス領事館があったフ
ランス山(公園)、グランド・ホテル旧館、グランド・ホテル新館があった場所は、
横浜人形の家、メルパルク郵便貯金会館として眺めることもできる。
僕は時々、こういう古写真のコピーを持って今のその場所を訪れることがあるのだ
が、意外と今でも同じ風景が残っていて(もちろん建物などは変わっているが)、当
時の雰囲気を偲ぶことができる。
古写真の世界が面白いのはそういうこともあるからだ。
いわばタイムマシンですよね。


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