Archive for 3 月, 2008

歴史写真

原市之進土岐朝海

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

☆ ☆☆☆☆原市之進 ☆ ☆☆☆☆☆ ☆☆☆☆土岐朝海

最近、東京大学の馬場章研究室が中心となって古写真のデジタルアーカイブ化の作業
を行っている。
その第1弾として産業能率大学所蔵の上野彦馬の写真を中心に、そのデジタルアーカ
イブ化と馬場章編『上野彦馬歴史写真集成』(渡辺出版)という本も出版された。
これ自体は大変すばらしい試みだと僕も思う。
ただ惜しむらくはせっかくの上野彦馬の写真集を出版するならば、写真の選定などで
もっと広く研究者の意見を聞いてからおこなって欲しかった。
それが無かったために、結局この『上野彦馬歴史写真集成』には上野彦馬が撮影した
写真ではない風景写真も間違って集録、掲載紹介されてしまった。
このことは今後、同じような試みを行う際にはぜひ反省、知見として貰いたいもので
ある。
さて、ここで馬場章研究室は古い写真を、従来、通例として(一般的に)「古写真」
と呼称していたのを、今後は「歴史写真」と言っていこうと提案している。
それは、「古写真」が持っている様々な情報をきちんと調査、精査して、歴史的な重
要資料としての価値を認め、後世に伝えると共に、今後の「古写真」の保存、管理、
整理の方法としても一つの様式を確立していくと同時に、日本全国の博物館、郷土資
料館などの協力も仰ぎ、これらが現在所蔵している「古写真」情報も共有化してゆこ
うという壮大な試みとなっている。
この活動に僕は全面的に賛成、賛同している。
ただ、一般にもっと関心を持って貰う人を多くするためには、呼称については馴染み
のある「古写真」という呼称(通称)でいいのではないかと僕は考えている。
古写真の研究は今まで一個人の研究者の努力に依存していて、組織だった研究もされ
ておらず、そのため古写真研究の後継者も育成されずといった状態が長く続いてき
た。
それがここ数年、状況が少しずつ改善されて、ようやく新しい若手古写真研究者も増
え始めてきたように思う。
東京都写真美術館、日本カメラ博物館、横浜開港資料館、横浜都市発展記念館、長崎
大学、尼崎市総合文化センター、東京都庭園美術館などの古写真展示はその非常にいい例だと思う。
しかし、実は新発見、新発掘の古写真を見つけるという作業は、まだまだ外国人古写
真ディーラーの活躍や、骨董業者、個人古写真コレクターの努力に依存しているのも
また事実なのだ。
僕としては古写真研究者はもっともっと地道にお墓探し、ご子孫探しなどの現地調査
や、古写真探索に時間を割いて努力して欲しいと考えている。
さて前置きがまたまたすっかり長くなってしまったが、今回の古写真は非常に歴史的
な意味、価値の高い写真なのだ。
(つづく)


ベンチマークとなる古写真

酒井公

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここ数年、古写真を研究して感じることは、「ベンチマークとなる古写真」は少ない
ということだ。
この「ベンチマークとなる古写真」とはどういうことかと説明すると、①撮影時期、
年月日が特定できる②撮影場所、写真館が特定できる③撮影した写真師が特定できる
④撮影された人物が特定できる⑤歴史的な意味のある、証拠となる古写真である、と
いった特性ができれば全てある古写真というのがベストということになる。
もちろん、これらのどれか一点でもあればそれはそれで大変貴重な古写真だと僕は考
えている。
ご覧の古写真はそんな古写真の一枚であるが、残念なことにこの古写真はコピーで、
現物の古写真は現在どこにあるのか所在不明だ。
前述の古写真の特性を全部説明してもいいのだが、まぁこの古写真をよく見ていただ
ければ判ることなので、今回はやめにする。
どうしても知りたい、説明して欲しい方がいるならば、大村の「なずな古本店」の店
主・一瀬さんまでメールで問い合わせしてくださいませ。
まぁ、少しだけ書くと、僕がこの古写真を大阪で初めて見たときに感動したのは、こ
の古写真で浅草大代地の内田九一の写真館で撮影された他の古写真を証明できるからだった。
また、この古写真は歴史的にも非常に意味のある古写真だったので、後に東北の郷土
資料館にこの古写真の情報を提供してあげた。
こういう「ベンチマークとなる古写真」として最高の古写真はめったに発見できない
ので、僕は非常にうれしかったし、後にこの古写真や他の古写真と共に論文を発表で
きたこともよかったと思う。
ここ数年、僕が注目している場所がある。
実はそれが大村、諫早、武雄などの長崎周辺なのだ。
これらの地方は幕末期に戊辰戦争に参加したりして、長崎、京都、江戸などの各地で
撮影したいい古写真が残っている可能性が非常に高いと僕は考えている。
まだまだ歴史的な古写真は日本に多く残っているのだ。
これらを発見してゆく古写真探索の僕の旅はまだまだ今も続いてる。


前島 密

前島密

 

 

 

 

 

 

 

 

今年になって長崎の写真師・上野彦馬の弟、上野幸馬について調べている。
この上野幸馬は産業能率大学創設者・上野陽一の父であるが、明治初年(七年頃)に東京築地の、今の築地本願寺の正門前で写真館を開業していた。当時の築地本願寺の正門は、今の築地市場の方角にあったので、上野幸馬の写真館は築地本願寺の横、北側にあったことになる。

この築地の上野幸馬の写真館は、当初はたいへん流行っていたようで、明治五年の「全国写真師見立番付」でも「築地 上野京馬」として記載されている。
客筋には幕末に長崎で留学、遊学して、明治維新後に新政府の官僚となった友人も多
く、「前島 密」もそんな初期官僚の一人だった。
「日本近代郵便の父」と呼ばれている。
ご覧の「前島 密」の古写真は浅草大代地の内田九一の写真館で撮影された写真で、『鴻爪痕 前島密伝』(前島会、昭30年)などに掲載されている写真だ。

さて、前置きがすっかり長くなってしまったが、この「前島 密」が、上野幸馬の有力な
支援者の一人ではあるのだが、残念なことに「前島 密」の自伝などで調べてみても、上
野幸馬との関係がよくわからない。
ただ「前島 密」は幕末(弘化4年)に江戸に出て医学を修め、蘭学・英語を学んでいる
ことから、どうやら長崎の蘭学・英語関係者との繋がりから、上野幸馬と知り合ったよ
うに思われる。
詳しく書くとこれは専門家的な話になるので、省略するが、明治十六年頃に写真館の経
営、商売がうまくいかなくなった上野幸馬は、長崎時代からの友人の支援で、その後、
海軍省の製作局の工場に勤め、その後、そこをくびになった後には、築地の逓信局に勤めている。
築地の電信局は今の汐留松下電工のビルの向い側、当時の新橋駅の向い側にあった。
生活が苦しい上野幸馬は、毎日、三田の四国町(現・慶応義塾大学東門の向い側)の長屋から、歩いて勤め先である電信局まで通っていた。
これは地図で確認してみるとよくわかるのだが、けっこうな距離でして、さぞかし生活
が貧乏で大変だったのだと思う。
まぁ、健康のためには非常にいいことだけど。

前島 密
(まえじま ひそか、天保6年1月7日(1835年2月4日) - 大正8年(1919年)4月27日)前
前島 密は、日本の官僚、政治家。日本の近代郵便制度の創設者で、1円切手の肖像で知られる。「郵便」や「切手」、「葉書」という名称を定めた。その多大なる功績から
「日本近代郵便の父」と呼ばれる。大久保利通らが当初進めていた大阪遷都に対し江戸遷都を建白した事でも知られる。また、国字改良論者としても有名である。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
近代日本人の肖像
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/327.html


『GALLERY UCHIDA』

 

昨年12月に本業の方は有給を取って、古写真調査のため東京大学の古写真デジタル
アーカイブ化チームの倉持先生たちと京都、大阪に古写真調査に行ってきた。
限られた日数だったが、楽しい日々を過ごし、古写真調査も新発見もあって個人的に
は非常に満足している。

京都から大阪にも移動して、また『GALLERY UCHIDA』にも立ち寄った。
『GALLERY UCHIDA』は内田写真株式会社が設立した関西で唯一の古写真博物館だ。
内田昌彦社長や係りの社員の方々にも再会し、歓談、昼食、夕食(&飲食)までもご
馳走していただいて、感謝、感動の数時間だった。
内田昌彦社長は将来、関西にも東京の東京都写真美術館や日本カメラ博物館に負けない古写真の歴史的な博物館を関西にも設立したいと夢を熱く語っていたのが印象に
残った。
『GALLERY UCHIDA』では、明治天皇を撮影した有名な幕末・明治初期の写真師・内田九一の撮影した古写真の展示を中心に、その他にもベアト、スチルフリードなどの写
真史に残る代表的な古写真を保存管理、展示している。
ここには内田九一が撮影したアンブロタイプ(湿板写真)としては現在、日本で確認
できる7点のうち1点の古写真(明治四年に浅草大代地の内田九一の写真館で撮影さ
れた写真)も所蔵されている。
また、展示された古写真についても、採算を度外視して、りっぱな図録を製作してお
り、販売、紹介もしている。
古写真に興味のある方ならば必見の博物館ですので、機会があればぜひお立ち寄りい
ただきたい。

僕の方は夕食後、東大の倉持先生たちと最終の新幹線で再び大阪から京都に戻り、そ
の夜に名古屋の学生時代からの親友と再会して、またまた夜の祇園界隈を飲み歩き、
翌日はその友人を連れて壬生など新撰組縁の場所を中心に京都を案内して廻った。
まぁ、僕的な幕末京都の解説付京都ガイドをしてました。

『GALLERY UCHIDA』

内田写真株式会社
http://www.uchida-p.co.jp/

〒540-0001
大阪市中央区城見2丁目2番22号
マルイトOBPビル3階(ホテル「モントレ ラ・スール大阪」内3階)
JR京橋駅下車徒歩五分
TEL:06-6943-0779  FAX:06-6943-0568


大村藩と戊辰戦争

近年、「大村騒動」を記録した史料「慶応三年丁卯日記」というものが見つかったこと
で、大村藩の幕末期の苦悩の様子がわかってきた。
その詳細については、外山幹夫著『もう一つの維新史ー長崎・大村藩の場合ー』(新潮
選書)で知ることができる。
「大村騒動」とは、慶応三年に「勤皇三十七士同盟」といわれた尊攘派の要人藩士が、
佐幕派藩士たちに襲撃された事件で、”元治の政変”とも呼ばれるが、藩政のクーデタ
ーを成功させた尊攘派の生き残りは、後にこの騒動に関わった多くの佐幕派藩士や親戚縁者までを捕らえ、斬首、獄門,遠島など弾圧した。
大村藩はその後、改革派の渡辺昇、大村右衛門などが中心となって、長州藩の奇兵隊の例にならい、正規の軍備を整え、『大村藩十三隊』として再編成して、薩長両藩ととも
に軍事行動をともにし、全国各地を転戦した。
戊辰戦争では上野の彰義隊征伐(上野戦争)、飯能戦争、会津戦争と活躍した。
大村藩の浜田謹吾は十五歳で、軍の鼓手(太鼓奏者)として従軍し、秋田県の角館の戦いで戦死している。
世界的な物理学者である長岡半太郎の父・長岡治三郎は、幕末大村藩血盟勤皇三十七士の一人として、主命を受けて京都の情勢を探り、戊辰の役では官軍先鋒の軍監となり、江戸、会津で功を立てた後、選ばれて明治政府に仕え、岩倉具視に従って欧米視察にも行っている。
渡辺昇については以前にも書いたとおり、明治維新後、大阪府知事、会計検査院長などを歴任した。
戊辰戦争後の論功行賞では、第一位の薩長両藩、第二位の土佐藩に次いで、第三位に大村藩となり、増石の褒賞を受けている。
この大村藩の激動期に「大村右衛門の集合写真」や、大村藩の「稲田又左衛門」の古写真が撮影されている。
また、浜田謹吾は出生前に家族と共に、洋装軍服姿で、長崎の上野彦馬の写真館で写真を撮っている。
また、これは後に戦死した浜田謹吾の最後の姿ともなった。
これらの古写真はこういうわけで大村藩の歴史的価値のある古写真、貴重な資料という
ことになるわけだが、残念なことにまだいつ、どこの写真館で、何という写真師が撮影
したものなのか判明していない。
戊辰戦争に従軍したご先祖を持つ地元の方で、こういった古い写真をご所蔵されている
方はいないでしょうか?
大村の「なずな古書店」店主の一瀬さんまでご連絡いただけましたら幸いです。


東京 帝国ホテル

大判手彩色古写真 東京 帝国ホテル 明治期

 

ご覧の大判手彩色古写真は今はなきかつての「帝国ホテル」の古写真だ。
「帝国ホテル」といえば普通、フランク・ロイド・ライトが設計した二代目「帝国ホ
テル」の方を思い出すが、この写真の「帝国ホテル」はその前に建築された初代の
「帝国ホテル」だ。
フランク・ロイド・ライトが設計した二代目「帝国ホテル」の方は、岐阜県犬山市の
明治村に正面玄関部分を移築復元して今でも見ることができる。
明治村に行けない人は映画「スパイゾルゲ」を観ていただくと、この明治村でロケが
行われたのでそちらでご覧ください。
さて、初代の「帝国ホテル」は明治23年に現在の帝国ホテルと同じ場所に、今とは
違って北側を正面として造られた。
この初代の「帝国ホテル」は鹿鳴館と同様に、井上馨外務卿の要請で鹿鳴館に隣接し
て建築されている。筆頭株主は内務省で、理事長はあの澁澤栄一だった。
写真の手前に写っている堀は明治36年に埋め立てられて今はない。
この埋め立てられた堀の跡に、現在の日比谷宝塚劇場やスカラ座がある。
掘割に向かって建てられたこの初代の「帝国ホテル」と満開の桜並木、この見事な風
景は明治期の溌剌とした青年国家日本の象徴のようで美しい。


京都 澤田開花堂

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明治期 女性肖像 澤田開花堂 京都 縄手通り 花嫁

 

 

 

 

 

 

 

ご覧の名刺判写真は京都の縄手通で営業していた写真師・澤田開花堂だ。
澤田開花堂は京都の女写真師 三輪歌の門下で、明治四年に最初、大阪安堂寺町で開
業して、後に京都に移り、縄手通で写真館を開業した。
この澤田開花堂は明治十六年当時の経営者の名前では「林作助」となっている。
写真の特徴としてはご覧の写真のように背景の書割と小道具、大道具をうまく利用し
て、モデルの男や芸者に様々な服装をさせて撮影している。
京都のお土産写真としてもこのような写真を六枚くらいセットにして店の名を印刷し
た専用の紙の子袋に入れて販売していた。
写真台紙表裏も例えばご覧のような斬新なデザインで、その種類もいろいろ確認でき
る。
その経歴についてはこれ以上は判らないのだが、こういう写真師について考え、研究
するのが面白い。
幕末明治初期の京都の写真師について、残された古写真を元にいろいろ調べてみる
と、どの写真も京都的な雰囲気があってすぐにわかる。
特に写真台紙は独特なデザインで、その意匠は一言でいえばこっている。
京都の写真師では四条通の八坂神社近くにその多くは開業していて、他には知恩院の
山門前や、八坂神社内、誓願寺内、伏見稲荷内、寺町通でも開業している。
こういった写真館は幕末の慶応年間にはすでに仮の写場を、寺社仏閣に向かう道に設
けて、長州征伐などで上京してきた諸藩の藩士たちを相手に商売をしていたようだ。
中岡慎太郎などの土佐藩、他にも福井藩の藩士が利用していたのは、祇園に近い今の
「鍵善」の前で営業していた堀與兵衛の写真館(祇園支店)だった。
近藤勇などの新撰組の隊士もこの写真館で撮影している。
最後の将軍・徳川慶喜の一橋家の家臣、側近は、残された写真を見ると、知恩院の山
門前の茶屋で営業していた亀谷徳次郎の写場で撮影していたようだ。
直接な関係はないと思うけど、京都の「開花堂」といえば今は手造りの茶筒が有名だ
が、明治初年の京都では写真館が有名だったわけだ。


東京浅草 浅草寺鐘楼

大判手彩色古写真 東京 浅草 浅草寺鐘楼 明治期

この前は上野の時の鐘を紹介したので、今度の古写真は「浅草寺鐘楼」、浅草の時の
鐘の写真です。
幸いなことにこの「浅草寺鐘楼」も今でも同じ場所で見ることができる。
ただし今ではこの「浅草寺鐘楼」の周辺は鐘の直ぐ近くまで民家、飲食店が並んでい
て、この古写真のような広々とした情景は見ることができない。
だからこの古写真が撮影された明治期の様子は江戸時代からの様子を見れる貴重な資料ともいえる。
左手奥に見えるのは浅草寺の五重塔だが、それよりも明治期の子供たちが佇んでいる
姿が微笑ましい。
もっとも当時の子供たちは親の仕事の手伝いやら子守りやらで、たいへんな苦労をし
ていたという。
明治維新で葵から菊のご紋に変わった世の中だけど、江戸の庶民は相変わらずの生活で、参勤交代の武士たちが急にいなくなったことと、幕府役人、御家人旗本がいなく
なってしまって、一時的に江戸の町の人口が減ってしまい、むしろ経済的には大打撃
だった。
しかし、その後も江戸は東京と名を変えて、日本の首都として平成の今日まで続いて
いる。
戦前の永井荷風じゃないけれど、僕も浅草を一人でよく徘徊していて、そのたびにい
ろんな発見もあり面白い。
まぁ、僕の場合、江戸切絵図と明治期の地図と今の地図が頭の中で混在しているせい
なのかもしれない。
最近は海野弘先生の『モダン都市東京』や『東京風景史の人々』などの本も好きなの
で、そのうち大正デモクラシーの時代や戦前戦後の東京の風景を想像するようになる
のかもしれない。
そんなことをしているうちに僕もすっかりジジイになって、お天気のいい日のボケ老
人の徘徊のように東京の町を歩いているような気もする。
やれやれ。


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