Archive for 1 月, 2008

大村右衛門 2

 

今回は大村右衛門の古写真の続報です。
大村史談会編「大村史話 下」(昭和四十九年)に掲載されている「大村右衛門の集合写
真」大村藩の「稲田又左衛門」の古写真は、確かに敷物の柄が同じだったが、フルベッ
キの単独写真の方は現物の写真を見る機会が今年あり、よく見ると敷物の柄が違っていました。
(ここでお詫びして前回の内容を訂正させていただきます)
また、その後「図説 埼玉県の歴史」という本に別の大村藩士の古写真を見つけた。
写真キャプションは「飯能戦争に参加した大村藩士」という古写真だ。
この写真の敷物の柄も「大村右衛門の集合写真」、大村藩の「稲田又左衛門」の古写真
と全く同じだった。
どうやら大村藩士はみんな同じ写真館で撮影しているようだ。
このことから推測されるのは、これらの写真が撮影された場所は、長崎の上野彦馬の写真館で撮影されたという仮説もまだあるが、それよりは幕末の大村藩北伐隊の動向を調べてみると、京都か東京の写真館で撮影された写真ではないかと僕は思う。
というのも今までのところ、この敷物の柄と同じ敷物の柄が写っている上野彦馬の古写
真が一枚もないからである。
結論はまだ出ていないが、いずれにしてももっと他に同じ敷物の柄が写っている古写真
を探すしかないようだ。
と思っていたら、埼玉の古写真コレクターの青木さんから久しぶりにメールが来て、そ
の問い合わせ写真の一枚が、敷物の柄も「大村右衛門の集合写真」、大村藩の「稲田又左衛門」の古写真と全く同じだった。
これで同じ敷物の柄の古写真が4枚見つかった。
こういう積み重ねを続けているうちに、そのうちにこれらの古写真が「どこで撮影され
たものなのか」わかるのだろう。


鹿鳴館

小判古写真 東京 旧鹿鳴館 明治期

 

 

 

 

 

 

 

 

 

テレビで三島由紀夫原作「鹿鳴館」という番組をやっていた。
「鹿鳴館」は皆さんもご存知のように時の明治新政府が、不平等条約の改正を意図し
て、欧米諸国との文化的な交流の場、サロンとして建築された。
建築者はイギリス人建築家コンドル(Conder 1852~1920)。
明治十六年完成。
その後、「華族会館」として払い下げられ、関東大震災にも耐えた「鹿鳴館」だった
が、昭和十五年「老朽化」という理由で取り壊された。
明治の夜を華やかに彩った建物は、数枚の写真を残して、跡形もなく消えてしまった。
写真はその「鹿鳴館」である。
さて、この「鹿鳴館」があった場所は、さらにその後どうなったかというと、実は現在
の霞ヶ関ビルがそうなのである。
そして、すごいことに霞ヶ関ビルには今でも旧華族の方々の団体、社団法人霞会館があ る。
まぁ、本当の意味でビップな方々が会員として名を連ねている団体だ。
僕は以前、この社団法人霞会館に古写真調査の件で何度か行ったことがあるのだが、大久保さん、西郷さん、木戸さん、松平さんなどなどと、教科書に出てくる歴史上の有名
人のご子孫の方々が、会員としていっぱいここにいました。
そこでこんなことがあった。
大久保利通公のご子孫である大久保さんと打ち合わせでお話ししていたら、係りの人が
「大久保様、お電話です」とそっと伝えてきた。
「いま、打ち合わせ中だから、後で掛けなおすと言って」と大久保さん。
すると係りの人が、落ち着いた声で、しかしちょっと眉を寄せて、
「陛下からです、・・・」
その瞬間、大久保さんもすぐに立ち上がって「ちょっとごめんなさい」と僕に謝って、
電話に出られました。
後で知ったのですが、大久保さんは今の天皇陛下とご学友とのことでした。
「ねぇ、たまにはいっしょに飲みに行かない?」なんて会話してたら面白いですよね。
たぶんそういうことではないと思いますが。

「鹿鳴館」の建設地は、内山下町の旧薩摩藩装束屋敷跡で、
現在の千代田区内幸町、現帝国ホテル隣の大和生命ビルの地。

「訂正:今の天皇陛下は大久保さんの一学年先輩で、この時の電話の相手はどうやら
宮内庁の誰かで陛下ではなかったようです。お詫びして訂正いたします。」


長崎

大判手彩色古写真 長崎 南山手 明治期

 

 

 

 

 

 

 

 

昨年秋、11月16日~17日の二日間、国内外の古写真研究者を迎えて古写真に関する研究発表「古写真研究国際コンファレンス」とそれを総括する形での国際シンポジウムが長崎大学で行われた。

僕も「古写真研究国際コンファレンス」への出席、参加のご案内を貰ったのだが、本業
の打ち合わせもあり、残念ながら今回は不参加だった。
招聘されていたのは、日本写真協会国際賞を今年受賞されたテリー・ベネット氏(英・
古写真研究家)をはじめ、ヘルマン・ムースハルト氏(蘭・古写真研究家)、セバスチ
ャン・ドブソン氏(英・古写真研究家)、ルーク・ガートラン氏(英・セントアンドリ
ュース大学)、ブライアン・バークガフニ氏(長崎総合科学大学)、小佐野重利氏(東
京大学)、高橋則英氏(日本大学)、三原文氏(大阪大谷大学)、齊藤多喜夫氏(横浜
都市発展記念館)、倉持基氏(東京大学)、金子隆一氏、三井圭司氏(東京都写真美術
館)、井桜直美(古写真研究家・日本カメラ博物館)などといったそうそうたるメンバ
ーだ。

長崎大学からは全体のオーガナイズをされている姫野順一先生と若木太一先生が発表をされたそうである。
17日には、「古写真にみる世界史の中の長崎」というパネルディスカッションも行わ
れ、その会場では上野彦馬、内田九一、富重利平という日本の写真創成期を代表する三名の写真師の御子孫が初めて一同に対面された。
地元の放送局、新聞社での取材もされたので、ご存知の方も多いと思う。
長崎は日本の写真術にとってまさに開祖の地(一つ)だ。
ここ数年、京都の初期の写真師について調べている僕は、結局、京都の写真術の大元も長崎であることがわかってきたので、あらためて長崎のすごさに感心している。


新富町界隈

32小判古写真 東京 銀座 

 

 

 

 

 

僕の勤めている会社のすぐ傍には築地警察署、中央区役所と中央区の図書館がある。
この一帯は今の新大橋通りまで概ね土佐藩(今の高知県)の下屋敷があった。
実はこの屋敷から北に少し歩いたところに通称浅利河岸、幕末当時の大富町があり、
ここに桃井春蔵の士学館道場という有名な剣術道場があった。
「士学館」は斎藤の錬兵館や千葉の玄武館と並んで江戸三大道場の一つにまで数えら
れ、「位は桃井。技は千葉。力は斎藤」と評された。
上田馬之助、土佐藩士の武市半平太、期間は短いが逸見宗助も士学館に入門した一人である。
今の場所は高速道路の西側に辺り、「京橋公園」のある場所がそうである。
桃井春蔵は鏡新明智流の剣客で、幕末には幕府の講武所の剣術教授も勤めていた。

最近、僕の方はお昼休みに会社から築地警察署、中央区役所の間の道を歩いて、高速道路沿いに歩き、桃井春蔵の「士学館」があった近くの、正確にいえば高速道路を挟
んで東側の一本裏道にある洋食店「煉瓦亭」で昼食を食べている。
ちなみにこの「煉瓦亭」のお隣りさんは「青葉」という美味しい鰻屋さんだ。
昼食後は若い頃と違ってそんなに忙しくないので、僕は帰り道に地下鉄日比谷線・築
地駅近くの喫茶店「ひよこ」に立ち寄り、新聞を読みながらアイスコーヒーを飲んで
から会社に戻ることもある。

そういうわけで、この界隈はよく知っているのだが、現在の中央区の京橋税務署があ
る場所には「新富座」があった。
「新富座」は、明治八年(1875年)に守田座を改称して設立された株式会社組織の劇
場で、経営者は第十二世守田勘弥。
明治九年、市村座が出火で類焼し、新富町四丁目に仮劇場を設営したのが始まりで、
明治十一年六月には、守田勘弥はガス灯などを配備した洋風近代劇場を同じ場所に新
設した。
ご覧の古写真は、明治初年の「新富座」の古写真だ。
明治初年、一世を風靡した「新富座」はその衰退し、明治四十三年にはついに松竹が
買収して、同社の経営に移る。
その後、大正十二年九月一日の関東大震災で被災して、そのまま再建されず廃座と
なってしまった。
現在、跡地には前述の京橋税務署と東京都中央都税事務所がある。
明治初年に「新富座」があった当時は劇場の付近は料理屋が並び、非常に賑わってい
た。
「新富座」の周辺には有名な歌舞伎役者たちも住んでいた。
「辰巳芸者」の小粋なお姉さん方もたくさん歩いていたことだろう。
そんなことを想像しながら、僕はこの界隈をよく歩いているわけだ。