Archive for the '未分類' Category

「龍馬夫人伝」展

03

ウォルッシュ・ホール商会のご子孫所蔵の古写真を展示した「龍馬夫人伝」展

8月1日の日曜日、松浦清文氏(ウォルッシュ・ホール商会のご子孫)の古写
真展を観るために、僕の住んでいる東京江東区から遠い小田急線・桜ケ丘駅に
行ってきた(家から1時間半掛かりました)。
同行者は午前11時に桜ケ丘駅で待ち合わせをした天然理心流を学ぶ女性剣士
・小曾根久美さんです。

駅前にはタクシーもなく仕方ないのでこの炎天下、汗を流しながら小曾根さん
と二人で桜ケ丘駅から約15分もてくてく歩いて会場に行きました。

ところが、・・・会場の受付で聞くと、やってないのです!
そこで手にした案内のチラシを見せると、受付のおばさんが急に思い出して、
そういえば似たようなチラシがロビーに貼ってあるといいます。
そこで壁に貼られた二枚のチラシをよく見ると、「8/1(日)~8/31(火)」
の「8/1(日)」の部分を、赤いマジックペンで「8/3(火)」と修正してい
ました。
「それはないよねぇ、・・・」と文句を言っても仕方がないので、受付のお
ばさんにこの展示の係の人と松浦清文氏にこういう者が来場したとお伝えく
ださいと言って、名刺だけ置いて駅に戻ることにした。

無駄足でせっかくなので、会場の手前で見かけた「大和霊園」という墓域の
入口にある添付の説明板を読んで、ちょっとだけ立ち寄ることにした。
墓域の奥に「福田開拓九人衆之碑」と「姥山由来記」があり見学する。

《姥山伝説》
福田開拓九人衆の一人、小林大玄の妻イトは、夫の家出を悲しむあまり発狂し、
人々を脅かしては盗みを働き、果ては幼児までも食べてしまいました。
たまりかねた村人は花見の宴で毒を盛り、イトを亡き者にしてしまいます。
それ以来この山は亡霊がでるという噂が広まり、近寄る人もなくなりました。
ある時、ここを通りかかった高貴な人が、和歌を詠んで冥福を祈ったところ、
亡霊も出なくなったということです。
村人は優婆尊尼像をいただいてお堂にまつり、やがてこの像は
子育ての姥さまとして親しまれるようになりました。
(『やまと歴史マップ』より)

ここには他にも以下の土岐家第十代 美濃国守護職 土岐頼純を偲んで建立した
供養碑がありました。
http://park.geocities.jp/yat5aze2/kinenhi/toki.html

帰りは「大和霊園」前のバス停から市営バスに乗ることにしたのだが、うっか
りPASMOを間違ったところにかざしてしまい、運転手に過払いになると注意され
て、桜ケ丘駅に着くと現金ではなくこの地元の市営バスでしか使用できない小
紙のチケットで過払い金80円を返金して貰いましたが、日曜日ということも
ありバスの営業所も閉まっていて(たぶんです。バスの営業所がどこにあるの
かも知らない)、他に換金するところもないので実質損をしてしました。しく
しく・・・。

それから一時間ちょっとかけて新宿まで戻り、同行者は小曾根さんには悪いこ
とをしたので(僕のせいではないけれど)、新宿中村屋で遅めの昼食(名物の
カレー)をご馳走して別れました。

ここで僕の方はせっかくだからと紀伊国屋書店に立ち寄って本を買って帰るこ
としただが、ここでも僕は失敗してしまいすでに購入していた大仏次郎の文庫
版「天皇の世紀③」をまた買ってしまいました。
(帰宅後に同じ本をすでに買っていたことに気がつきました、・・・しくしく)

紀伊国屋書店を出ると、酷暑なので喫茶店でアイスコーヒーでも飲んで行こうと
思いましたが、どこも人でいっぱいで空いている席もなく、何だかついてない一
日なので、もうどこにも立ち寄らずにおとなしく帰宅することにした。
やれやれ、・・・

古写真界の四変人の一人松浦清文さんの古写真コレクションを展示した「龍馬夫
人伝」展はしょぼい展示のようですが、8月3日から31日までやる予定だそうです。
ご本人は土日の午後1時から4時まで会場にいるようですが、事前に会場に確認
したほうがいいようです。

場所は、
大和市草柳8-12-1
大和市環境管理センター管理棟2階サロン
046-269-0504
です。


京都西本願寺

01

当初、新選組は壬生の八木邸や前川邸などに分宿していたが、元治二年
(1865年)三月十日、屯所が手狭になったためこの西本願寺に移転した。
長州藩に同情的だった西本願寺への嫌がらせともいう。
この西本願寺の太鼓楼は当時のままだそうだが、太鼓楼裏側にあった新
選組の屯所として使われていた北集会所は、姫路の亀山御坊本徳寺に移
築されている。
また新選組の隊士だった島田魁は明治になってこの西本願寺の守衛とし
て働き、ここで倒れて七十三歳で亡くなっている。

ご覧の古写真は明治になってからの京都西本願寺本堂(阿弥陀堂)の大
型手彩色古写真で、輸出、お土産、外国人向けに大量に複写制作された
横浜写真の一枚である。
この西本願寺本堂は平成の大修理で長らく工事中であったが、ようやく
それも終わり、かっての姿を取り戻している。

京都西本願寺については下記もご覧ください。

http://www.hongwanji.or.jp/


おりょうさんの弟・楢崎太一郎

000019

坂本龍馬の妻・おりょうさんの弟の一人に楢崎太一郎
という人がいる。
この楢崎太一郎については明治三十七年十二月十八日
の「東京二六新聞」の記事「阪本龍馬 未亡人龍子(三)
」に、「さて太一郎は吉井家に引き取られたけれども、
何分龍馬の後を継ぐ器でないので、数年間、吉井に養わ
れた後、一時海軍の楽隊となつたともあり、今は麻布辺
に住み砲兵工廠の職工を勤めて細い煙を立てて居るとの
事である。」とある。
ご子孫の方の話によれば、この後に太一郎は朝鮮に移り、
大正十四年九月一日、朝鮮兼二浦で六十九歳で没したと
のことである。
戦後、太一郎の長女・楢崎マサ(養子・又三郎を婿に貰
い楢崎家を継いだ)、現在の世田谷区北烏山の浄土真宗
存明寺に分骨された。

この世田谷区北烏山の存明寺の墓域にある楢崎家のお墓
を先日、お参りしにいったわけなのだが、それがご覧の
写真になる。

先日はこのお墓を観て、いろいろと写真を撮って、それ
から北烏山の他のお寺を墓マイラーとして観て歩いてい
たというわけだ。

一方、おりょうさんにはもう一人弟がいる。楢崎健吉と
いうのだがこの人は明治五年頃に本郷警察書の巡査(あ
るいは巡査見習)をやっていたのだが、間もなく脚気で
病死している。
この楢崎健吉のお墓はどこにあるのか、現在のところ全
く不明である。
そこで先日、探墓巡礼顕彰会の幹部の先生方にお願いし
て、楢崎健吉のお墓の行方について調べて貰えないかと
相談することにした。
今年中にそのことが何か判ればもしかしたら新聞記事と
して取り扱ってくれるかもしれない。

また、明治五年の頃におりょうさんが上京して住んでい
たのは、当時から木造二階建の棟割長屋が並んでいた築
地小田原町 (後の築地7丁目の界隈)と思われる。

築地の小田原町については、調べてみると以下のような
ところなので、興味のある方が居られれば一度歩いてみて欲しい。

*********************************

築地 小田原町

慶長年間(1596年から1614年)、江戸城増築の時、
相模国小田原から善右衛門という石工が来て、
この河岸を石揚場としたのにちなんで町名となったという説と、
相州小田原の魚商が、幕府に請うてこの地を開いたためという
説があります。

http://www.city.chuo.lg.jp/syokai/tyomeiyurai/tsukiji/


万代修氏の行方2

僕はいまいろいろな人に万代修氏の連絡先あるいは現況について尋ねている。
それというのも万代修氏が幕末の京都で撮影されたと思われる古写真をいくつか発見さ
れているのだが、その古写真の現物が行方不明となっているからである。

ある人は2004年に日野でお会いしたといい、ある人はもう亡くなったと聞いているとい
い、まるで雪男情報のようにはっきりしない。
万代修氏の今の状況はわからないという。

万代修氏は幕末期の歴史研究では、きちんとフィールドワークを行い、詳細で丹念な調
査をされている。
それは万代修氏の著作である『新選組こぼれ話』(鳥影社、1984/06 出版)、『幕末・
維新こぼれ話』(私家本、平成3年(1991年))、『新選組追究録』(新人物往来社、平
成10年(1998年))や『新選組裏話』(新人物往来社、平成11年(1999年))を読むと
よくわかる。

万代修氏は大阪出身の市井の歴史研究者(郷土史家)で独身の方だそうだ。
そのためお子様もいらっしゃらないことから、もし亡くなられたとすれば、長年の研究
資料の行方も気になる。
コピーされた資料などは「日野市立新選組のふるさと歴史館」や京都の「府立綜合資料
館」にあるようだが、確認してみると古写真資料はないという。

誰か2004年以降の万代修氏がどうなったのかご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひ
教えてくださいませ。
よろしくお願い申し上げます。

縁台に腰掛けた坂本龍馬の肖像写真

01

ご覧の縁台に腰掛けた坂本龍馬の肖像写真がある。
この写真は今までどこで撮影された写真なのかは不明であったのだが、2009年江戸
史談会の会場で茂呂司氏のするどい指摘によって、解明の糸口ができた。
最初、僕自身は何の根拠もなく、なんとなく長崎の上野彦馬の写真館で撮影された
写真だろうと思っていたのだが、茂呂司氏が気がついた伊東孝三の写真に写ってい
る煙草盆が同じものであることから、慶応年間に京都か大坂で撮影された写真であ
る可能性が高いと思うようになった。

その後、この伊東孝三の写真に写っている椅子と全く同じ椅子に腰かけている市川
斎宮の写真があることに気がついた。
しかも再び茂呂司氏のするどい観察眼からこの市川斎宮の写真に写っている絨毯の
柄が、近藤勇の写真に写っている絨毯の柄と全く同じことが判明したのである。

ここでちょっと整理すると、
①縁台に腰掛けた坂本龍馬の肖像写真(煙草盆)
②伊東孝三の写真(煙草盆と椅子)
③市川斎宮の写真(椅子と絨毯)
④近藤勇の写真(絨毯)
という共通項の関係から、この縁台に腰掛けた坂本龍馬の肖像写真は、近藤勇の写真
と同じ京都の堀与兵衛撮影の可能性が出てきたというわけなのである。

ところが、・・・・ここに問題があるのだがこの伊東孝三の写真、市川斎宮の写真に
写っている椅子と同じデザインの椅子は他の古写真(長崎の上野彦馬、大坂心斎橋の
中川信輔撮影の古写真)にもあり、証明としてはまだ不十分となってしまった。

しかしながら、慶応年間の伊東孝三、市川斎宮の行動を調べてみると、長崎には行っ
ていないことから、少なくとも長崎の上野彦馬撮影の可能性はない。
また、上野彦馬の写真館で使用されていた煙草盆とも違う。
後は京都の堀与兵衛撮影か、大坂心斎橋の中川信輔撮影かということになるのだが、
まだ確定できていないのである。


名古屋城の金鯱(焼失前の金網に覆われた金鯱)

04 名古屋城の金鯱 宮下 欽

05 手彩色大判古写真 名古屋城 天守閣と小天守 明治

06 手彩色大判古写真 名古屋城 天守閣と本丸御殿

07 明治期 名古屋城

慶長十七年(1612年)名古屋城天守が竣工した当時の金鯱は、
一対で慶長大判1940枚分、純金にして215.3kgの金が使用され
たといわれている。
高さは約2.74メートルあった。

しかし、鯱の鱗は、藩財政の悪化により、都合三回にわたって
金板の改鋳を行って金純度を下げ続けた。
そのため、最後には光沢が鈍ってしまい、これを隠すため金鯱
の周りに金網を張り、カモフラージュした。
この金網は、表向きは盗難防止(実際に何度か盗難にもあった
こともある)や鳥避けのためとされ、戦災により焼失するまで
取り付けられていた。
明治四年(1871年)に政府に献納され、東京の宮内省に納めら
れた。
その後、雄鯱は国内の博覧会を巡り、雌鯱は明治六年(1873年)
のウィーン万国博覧会に出品された。
金鯱が大天守に戻ったのは明十二年(1879年)二月のことである。

徳川の金鯱の中では最も長く現存していたが、昭和二十年(1945
年)に名古屋大空襲で焼失している。
焼夷弾で焼失した金鯱の残骸は、戦後GHQに接収され、のち大蔵
省に移ったが、昭和四十二年(1967年)に名古屋市に返還された。
名古屋市は残骸から金を取り出し、名古屋市旗の冠頭と、金茶釜
に加工して保存している。
現在のものは復元されたもので、復興天守建造のときに、日本国
内に数えるほどしか残っていなかった鎚金師で大阪造幣局職員の手
により復元製造された。
一対に使用された金の重量は88kgである。

名古屋城の金鯱(焼失前の金網に覆われた金鯱)の写真は横山松三
郎の門人で宮下欽が撮影している。

横山松三郎、宮下欽については下記をご覧ください。
http://moct.web.infoseek.co.jp/hm-tomonokai/archives/2006/02/post_20.html


日仏修好通商条約締結150周年記念特別展示

「維新とフランス--日仏学術交流の黎明」展
先日、本郷の東京大学で行われている「維新とフランス--日仏学術交流の黎明」展に行ってきた。
今回の展示は在日フランス商工会議所理事、株式会社セリク代表取締役社長、日仏関係史研究者である、クリスチャン・ポラックさんのコレクションを中心に特別展示されており、特に古写真関係の出品はそれは見事なものであった。
もうこういう古写真を観るとただため息しか出てこない。
ポラックさんは、芸術と歴史にスポットを当てて日仏関係史を紹介した『絹と光、日仏交流の黄金期(江戸時代~1950年代)』、『筆と刀、日本の中のもうひとつのフランス(1872年~1960年)』という二冊の著書を出版されている。
僕はこの二冊の本を読んで、ポラックさんの古写真コレクションを拝見したいと思っていたので、今回の特別展示はまさにその願いが叶ったというわけだ。
とにかくすごかったです。
日仏修好通商条約締結150周年記念特別展示
「維新とフランス--日仏学術交流の黎明」展については下記をご覧ください。
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/exhibition/2009FranceJapon.html


疾風怒濤の人 高杉晋作

048

ご覧の高杉晋作の写真は大変有名なので、どこかで観た人も多いと思う。
この写真は長崎の上野彦馬の写真館で撮影された。
その根拠は高杉晋作の写真の後ろに写っている白い腰板が、同時代の上野彦馬が撮影した別の写真にも写っているからである。
では撮影時期はいつであろうか?
僕もちゃんと調べたわけではないが、同じ写真が慶応二年四月に高杉晋作から愛妾・おうの(後の梅処尼)へ送られた手紙に添えられていたことから、少なくともそれ以前(慶応二年四月以前)に撮影されたことは確実だ。
また、別の伊藤博文と写っている三人の集合写真も、おうのへ送られた手紙に添えられていたことから、慶応元年から慶応二年四月までに撮影された写真だと僕は思う。
もっと調べてみたいという方がいらっしゃいましたら、一坂太郎著『高杉晋作の29年』(新人物往来社、2008年)に、一坂太郎先生が現存する高杉晋作の写真について詳細に発表されているので、そちらをお読みください。
その他の基本参考資料としては、奈良本辰也著『維新前夜の群像第1 高杉晋作』(中公新書、1965年)をお勧めします。


次ページへ »