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万代修氏の行方2

僕はいまいろいろな人に万代修氏の連絡先あるいは現況について尋ねている。
それというのも万代修氏が幕末の京都で撮影されたと思われる古写真をいくつか発見さ
れているのだが、その古写真の現物が行方不明となっているからである。

ある人は2004年に日野でお会いしたといい、ある人はもう亡くなったと聞いているとい
い、まるで雪男情報のようにはっきりしない。
万代修氏の今の状況はわからないという。

万代修氏は幕末期の歴史研究では、きちんとフィールドワークを行い、詳細で丹念な調
査をされている。
それは万代修氏の著作である『新選組こぼれ話』(鳥影社、1984/06 出版)、『幕末・
維新こぼれ話』(私家本、平成3年(1991年))、『新選組追究録』(新人物往来社、平
成10年(1998年))や『新選組裏話』(新人物往来社、平成11年(1999年))を読むと
よくわかる。

万代修氏は大阪出身の市井の歴史研究者(郷土史家)で独身の方だそうだ。
そのためお子様もいらっしゃらないことから、もし亡くなられたとすれば、長年の研究
資料の行方も気になる。
コピーされた資料などは「日野市立新選組のふるさと歴史館」や京都の「府立綜合資料
館」にあるようだが、確認してみると古写真資料はないという。

誰か2004年以降の万代修氏がどうなったのかご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひ
教えてくださいませ。
よろしくお願い申し上げます。

縁台に腰掛けた坂本龍馬の肖像写真

01

ご覧の縁台に腰掛けた坂本龍馬の肖像写真がある。
この写真は今までどこで撮影された写真なのかは不明であったのだが、2009年江戸
史談会の会場で茂呂司氏のするどい指摘によって、解明の糸口ができた。
最初、僕自身は何の根拠もなく、なんとなく長崎の上野彦馬の写真館で撮影された
写真だろうと思っていたのだが、茂呂司氏が気がついた伊東孝三の写真に写ってい
る煙草盆が同じものであることから、慶応年間に京都か大坂で撮影された写真であ
る可能性が高いと思うようになった。

その後、この伊東孝三の写真に写っている椅子と全く同じ椅子に腰かけている市川
斎宮の写真があることに気がついた。
しかも再び茂呂司氏のするどい観察眼からこの市川斎宮の写真に写っている絨毯の
柄が、近藤勇の写真に写っている絨毯の柄と全く同じことが判明したのである。

ここでちょっと整理すると、
①縁台に腰掛けた坂本龍馬の肖像写真(煙草盆)
②伊東孝三の写真(煙草盆と椅子)
③市川斎宮の写真(椅子と絨毯)
④近藤勇の写真(絨毯)
という共通項の関係から、この縁台に腰掛けた坂本龍馬の肖像写真は、近藤勇の写真
と同じ京都の堀与兵衛撮影の可能性が出てきたというわけなのである。

ところが、・・・・ここに問題があるのだがこの伊東孝三の写真、市川斎宮の写真に
写っている椅子と同じデザインの椅子は他の古写真(長崎の上野彦馬、大坂心斎橋の
中川信輔撮影の古写真)にもあり、証明としてはまだ不十分となってしまった。

しかしながら、慶応年間の伊東孝三、市川斎宮の行動を調べてみると、長崎には行っ
ていないことから、少なくとも長崎の上野彦馬撮影の可能性はない。
また、上野彦馬の写真館で使用されていた煙草盆とも違う。
後は京都の堀与兵衛撮影か、大坂心斎橋の中川信輔撮影かということになるのだが、
まだ確定できていないのである。


名古屋城の金鯱(焼失前の金網に覆われた金鯱)

04 名古屋城の金鯱 宮下 欽

05 手彩色大判古写真 名古屋城 天守閣と小天守 明治

06 手彩色大判古写真 名古屋城 天守閣と本丸御殿

07 明治期 名古屋城

慶長十七年(1612年)名古屋城天守が竣工した当時の金鯱は、
一対で慶長大判1940枚分、純金にして215.3kgの金が使用され
たといわれている。
高さは約2.74メートルあった。

しかし、鯱の鱗は、藩財政の悪化により、都合三回にわたって
金板の改鋳を行って金純度を下げ続けた。
そのため、最後には光沢が鈍ってしまい、これを隠すため金鯱
の周りに金網を張り、カモフラージュした。
この金網は、表向きは盗難防止(実際に何度か盗難にもあった
こともある)や鳥避けのためとされ、戦災により焼失するまで
取り付けられていた。
明治四年(1871年)に政府に献納され、東京の宮内省に納めら
れた。
その後、雄鯱は国内の博覧会を巡り、雌鯱は明治六年(1873年)
のウィーン万国博覧会に出品された。
金鯱が大天守に戻ったのは明十二年(1879年)二月のことである。

徳川の金鯱の中では最も長く現存していたが、昭和二十年(1945
年)に名古屋大空襲で焼失している。
焼夷弾で焼失した金鯱の残骸は、戦後GHQに接収され、のち大蔵
省に移ったが、昭和四十二年(1967年)に名古屋市に返還された。
名古屋市は残骸から金を取り出し、名古屋市旗の冠頭と、金茶釜
に加工して保存している。
現在のものは復元されたもので、復興天守建造のときに、日本国
内に数えるほどしか残っていなかった鎚金師で大阪造幣局職員の手
により復元製造された。
一対に使用された金の重量は88kgである。

名古屋城の金鯱(焼失前の金網に覆われた金鯱)の写真は横山松三
郎の門人で宮下欽が撮影している。

横山松三郎、宮下欽については下記をご覧ください。
http://moct.web.infoseek.co.jp/hm-tomonokai/archives/2006/02/post_20.html


日仏修好通商条約締結150周年記念特別展示

「維新とフランス--日仏学術交流の黎明」展
先日、本郷の東京大学で行われている「維新とフランス--日仏学術交流の黎明」展に行ってきた。
今回の展示は在日フランス商工会議所理事、株式会社セリク代表取締役社長、日仏関係史研究者である、クリスチャン・ポラックさんのコレクションを中心に特別展示されており、特に古写真関係の出品はそれは見事なものであった。
もうこういう古写真を観るとただため息しか出てこない。
ポラックさんは、芸術と歴史にスポットを当てて日仏関係史を紹介した『絹と光、日仏交流の黄金期(江戸時代~1950年代)』、『筆と刀、日本の中のもうひとつのフランス(1872年~1960年)』という二冊の著書を出版されている。
僕はこの二冊の本を読んで、ポラックさんの古写真コレクションを拝見したいと思っていたので、今回の特別展示はまさにその願いが叶ったというわけだ。
とにかくすごかったです。
日仏修好通商条約締結150周年記念特別展示
「維新とフランス--日仏学術交流の黎明」展については下記をご覧ください。
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/exhibition/2009FranceJapon.html


疾風怒濤の人 高杉晋作

048

ご覧の高杉晋作の写真は大変有名なので、どこかで観た人も多いと思う。
この写真は長崎の上野彦馬の写真館で撮影された。
その根拠は高杉晋作の写真の後ろに写っている白い腰板が、同時代の上野彦馬が撮影した別の写真にも写っているからである。
では撮影時期はいつであろうか?
僕もちゃんと調べたわけではないが、同じ写真が慶応二年四月に高杉晋作から愛妾・おうの(後の梅処尼)へ送られた手紙に添えられていたことから、少なくともそれ以前(慶応二年四月以前)に撮影されたことは確実だ。
また、別の伊藤博文と写っている三人の集合写真も、おうのへ送られた手紙に添えられていたことから、慶応元年から慶応二年四月までに撮影された写真だと僕は思う。
もっと調べてみたいという方がいらっしゃいましたら、一坂太郎著『高杉晋作の29年』(新人物往来社、2008年)に、一坂太郎先生が現存する高杉晋作の写真について詳細に発表されているので、そちらをお読みください。
その他の基本参考資料としては、奈良本辰也著『維新前夜の群像第1 高杉晋作』(中公新書、1965年)をお勧めします。


土方歳三写真の謎 その五

001

前回までの記述で土方歳三の写真は函館で、明治元年十二月十五日から明治二年四月
九日の間に撮影されたとご理解いただけたと思う。
今回は誰が撮影したかという問題について考えてみたい。
幕末の初期、函館の写真師ということならば、安政五年九月に来日した初代駐日ロシ
ア領事ゴシケヴィッチがの趣味で行っていた写真術がその技術も高く、また領事に随
行してきた医師アルブレヒトと交代して、文久三年に着任してきたゼレンスキーが有
名ではあるが、ゴシケヴィッチは慶応元年に帰国しており、ゼレンスキーも慶応二年
に帰国していることから、この二人は土方歳三を撮影することはできない。
次にこの二人から写真術の伝授を受けた横山松三郎、木津幸吉(剛吉)と田本研造が
最有力候補となる。
横山松三郎、木津幸吉(剛吉)、田本研造の略歴については下記のサイトをご参照し
ていただきたい。
さてこれらの三人が土方歳三を撮影した可能性が高いことになるのだが、木津幸吉
(剛吉)は明治二年五月に函館戦争が終結した後、公家の清水谷公考と共に東京へ転
住したといわれている。
そして明治九年十二月出版の「東京写真見立競」では「年寄 下谷 木津剛吉」とし
て登場している。
このことは後に説明するがちょっとご記憶願いたい。
また、明治二年に上京する際に木津は撮影機材やネガなどを全て田本研造に譲り渡し
て上京したといわれている。
従って市立函館図書館所蔵「田本研造旧蔵写真アルバム」に旧幕府軍の幹部たちの写
真が掲載されているとはいえ、このことだけで田本研造の撮影だと断定するのはまだ
難しいのである。
横山松三郎についても考えてみよう。
佐藤清一著『函館文化発見企画1 函館写真のはじまり』によれば、田本が営業中の
明治三十六年十二月十五日発行『北海道立志編第二巻』の田本研造の項に、
「横山松三郎なる者ありて少しく写真術を会得せしを以て之に就て学び
自研自究先づ専ら写真器械製造に工夫を注ぎ漸く玉鏡及び箱を製造するを得たり
業末だ央ならざるに幕府の脱走士榎本釜次郎の部下氏の前を過ぎりて写真器械を製造
するを見切りに撮影を求む」
とある。
つまり、ここでは榎本釜次郎の部下たちが田本研造に撮影を依頼していることがわか
る。
横山松三郎は撮影していないのだ。
もっとも横山松三郎は山口才一郎が『旧幕府』(第参巻第七号)に掲載された下岡蓮
杖の自伝「写真事歴」を引用すれば、「慶応四年撮影ノ業ヲ江戸両国元坊ニ開ク 次
テ下谷池之端ニ移転セリ」とあることから、すでに函館に居なかったのだろう。
また、田本の葬儀の際に、写真師・紺野松次郎の弔辞に、
「五稜郭の役あり徳川の脱士等先生の写真の技を弄ぶを見て珍として争いて其門を訪
ふ榎本泉州以下富年お小照今日に散見するもの皆先生の神技の賜なり」
と、紺野松次郎は旧幕府脱走軍の幹部たちの写真撮影は、田本研造が撮影したことで
あると語っている。
さらに田本研造の履歴についても、本人が存命で活躍中の明治二十一年二月十九日付
函館新聞に、
「(前略)其後元治慶応の頃函館へ下り横山木津両氏に就きて写真の術を修め大いに
自得せる所あり
明治元年氏自ら写真鏡を工夫製造し薬剤を備へ写術を試みたり
明治二年は恰も旧幕脱士の入込みたる時なりしば諸士頻りに氏の許に来り写影を求め
脱士諸士の像を写つしたるもの頗る多かりしといふ(後略)」
とあることから、状況証拠ながら木津幸吉(剛吉)が撮影した可能性は薄く、田本研
造が撮影した可能性が非常に高いことがこのことからもわかる。
まとめると現時点での情報を考えれば、土方歳三の写真は函館で、明治元年十二月十
五日から明治二年四月九日の間に田本研造が撮影したのである。
函館のどこで撮影したについては、この当時、田本研造は現在の元町東本願寺函館別
院(英国人貿易商フレタの家があった所で、後の「叶同館(協同館)」)の近くの露
天写場で開業していたことから、おそらくこの場所で撮影されたものと考えられる。
田本研造は後に近くの会所町に移り本格的な写真館(写場)を開業するが、この場所
ではない。
蛇足ながら、この田本写真館は函館の大火で焼失、同所での再建を繰り返しているこ
とから、オリジナルの土方歳三の写真(湿板ガラス写真)は、焼失したものと考えら
れる。
【参考資料】
『旧幕府』(第参巻第七号)
佐藤清一著『函館文化発見企画1 函館写真のはじまり』(五稜郭タワー株式会社、
平成十一年)


古写真三昧

003

先日、東京大学、慶応大学の先生といっしょに放送大学附属図書館が所蔵している古
写真アルバムを見に行ってきた。
スチルフリードやベアトの写真アルバムなどを観るためだ。
風景写真を中心に名刺判写真も含めておよそ三百枚くらいだろうか、ちゃんと数えて
なかったのだが、そのくらいの写真を観たので少々疲れた。
翌日は埼玉県吉川市へ古写真コレクターの青木さんのコレクションを拝見させていた
だく。
こちらは珍しい、貴重な名刺判写真が数多くあり、たいへん参考になった。
その後も足立区立郷土博物館に綾瀬の金子家所蔵の古写真を観に行き、鑑定してき
た。
日本にはまだまだ貴重な古写真資料が数多く残されていると思う。
ここ最近は初心に戻ってまた近藤勇の写真について探求している。
その関係で新撰組の研究者にお会いして話しを聞いたり、週末の休日に旧家のご子孫
の連絡先を調べに現地に行ったりしている。
現存している近藤勇の写真もまだ現物を実際に手にして確認していないものもあり、
これも早急に確認しなければならないと考えている。
また、土方歳三の写真についても再調査してみたいと考えているのだが、そのために
は函館市立図書館にも調査に行かねばならず、これについてはまだ別の機会にとも考
えている。


函館戦争 その七

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右端の人物—————————–小笠原長生

 

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大鳥圭介—————————大野右仲

今回は「幕府脱走軍兵士」として知られる集合写真の七回目です。
その他の蝦夷共和国の幹部たちについてさらに調べてみる。
徹底抗戦を主張し、箱館まで転戦して新政府軍に抗戦した小笠原長行ははどうであろ
うか。
陸軍奉行並に就任し、土方歳三直属の部下となり、二股口の戦いから、箱館総攻撃に
至るまで土方の補佐役を務めた大野右仲はどうであろうか。
この二人も残された写真を見ると別人であることがわかる。
では、箱館政権 の陸軍奉行、大鳥圭介はどうであろうか。
幸い、大鳥圭介には若い頃の肖像写真が残っている。
新政府時代の大鳥圭介の肖像写真だと別人のように見えるが、この若い頃の肖像写真
と一番右端に座っている人物を比較していただきたい。
どうであろうか。
僕はこの一番右端に座っている人物は、残念ながら土方歳三ではなく、大鳥圭介だと
考えている。
撮影場所は函館とすると、確かに有力な写真師は田本研三ということにはなるが、も
う一人候補者がいる。
それは木津幸吉だ。
函館時代の田本研三と木津幸吉についての研究は進んでいないため、どちらと断定は
まだできないが、幸いこの「幕府脱走軍兵士」として知られる古写真には椅子が写っ
ていることから、今後の研究しだいでどちらであるか判定することもできると僕は思
う。
また、撮影時期については
明治元年十月二十六日に榎本軍が函館五陵郭に入城してから、左から三番目の甲賀源
吾が宮古湾海戦で戦死した明治二年三月二十五日(1869年5月6日)の間に撮影された写
真であろう。
一番可能性が高いのは、蝦夷地平定の祝賀会が行われた明治元年十二月十五日頃とい
うのはどうであろうか。
政権としての体裁が一応整った明治元年十二月のある日に、函館の写真館に彼らは集
い、記念写真を撮ったということだろうと思う。
木津 幸吉については下記をご覧ください。
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/jimbutsu_ver1.0/b_jimbutsu
/kizu_ko.htm
小笠原長行については下記をご覧ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E9%95%B7%E8%A1%8C
大野右仲については下記をご覧ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E5%8F%B3%E4%BB%B2
大鳥圭介については下記をご覧ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%B3%A5%E5%9C%AD%E4%BB%8B
甲賀源吾については下記をご覧ください。
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「幕府脱走軍兵士」として知られる古写真については下記をご覧ください。
http://members.at.infoseek.co.jp/Bakumatu/hako_dasso.htm


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