Archive for the '写真で紐解く・・・' Category

続・「幕府脱走軍兵士」

続・「幕府脱走軍兵士」として知られる古写真について
先日、東京大学に新しく建設されました建物、「福武ホール」にて行われた、渡辺出
版及び馬場研究室の歴史系プロジェクト主宰の『皇族に生まれてII―秩父宮談話集』
(渡辺出版刊)という本の出版報告会&懇親会に出席した。
会場では軍装関係の研究者である平山先生に久しぶりにお会いしたので、僕は函館戦
争の旧幕府軍の集合写真などについていろいろご教授いただいた。
「幕府脱走軍兵士」として知られる古写真で、僕は左端の人物は小杉雅之進と考えて
いるのだが、その根拠とした榎本武揚たち、函館共和国の幹部たちの集合写真(後列
左から小杉雅之進、榎本対馬、林董、松岡磐吉、前列左から荒井郁之助、榎本武揚)
に写っている小杉雅之進の軍装は海軍の軍服であることが確認できました。
よく見ると襟に錨のマークがあります。
また、小杉雅之進は戊辰戦争では榎本武揚に従い、箱館政権では江差奉行並となった
人物ですが、元は安政4年(1857年)に、長崎海軍伝習所三期生に選ばれ、機関学を学
んでいます。
その後、小杉雅之進は軍艦操練所教授方手伝となり、万延元年(1860年)には、咸臨
丸の太平洋横断時には蒸気方の見習士官を務めました。
また、慶応3年(1867年)には、軍艦蒸気役一等となり、開陽丸機関長を務めていま
す。
従って榎本武揚たち、函館共和国の幹部たちの集合写真の、後列左端の人物は、その
軍装からも小杉雅之進で問題ないと思います。
この二つの集合写真を比較するとその容貌から、この人物はやはり小杉雅之進と断定
してもいいと僕は思いました。
「幕府脱走軍兵士」として知られる古写真については下記をご覧ください。
http://members.at.infoseek.co.jp/Bakumatu/hako_dasso.htm


新撰組隊士 横倉甚五郎

001
ここ数年、近藤勇の肖像写真について研究していることもあって、新撰組関係の参考
本があると入手して読むようにしている。
最近の本では、松浦玲著『新選組』(岩波新書)、大石学著『新選組 「最後の武士」
の実像』(中公新書)がよかったと思う。
さて、先日お天気は曇天とよくなかったのだが、週末のウォーキングで急に思い立っ
て、京王線・北野駅まで行くことにした。北野駅前からバスに乗って北野台のバス停
で下車、「絹の道」という山道を歩いて、柚木街道まで出る。
柚木街道を西に歩いて鑓水という土地にある日蓮宗のお寺、大法寺本堂裏にある「ま
や霊園」に行ってきた。
北野台から大法寺までの約5キロの行程を「絹の道」も含めて早歩きでおよそ1時間
で歩いた。
その途中にある鄙びた地元の神社「諏訪神社」と、「絹の道資料館」にも立ち寄った
ので、かなりハードなウォーキングとなってしまった。やれやれ。
さて、この「まや霊園」には、元新撰組の隊士で横倉甚五郎という人のお墓があっ
て、そこが本日の僕の真の目的地だったからだ。
この横倉甚五郎という人は、元治元年(1865年)に近藤勇による隊士募集に応じて伊
東甲子太郎らと共に新選組に入隊した人で、油小路の変には大石鍬次郎らと共に出動
参加している。
また、慶応三年(1866年)十二月に伏見街道を下った墨染を過ぎた辺りで、高台寺党
の残党が近藤勇を狙撃した際にその護衛に当っていた人物だ。
その後、横倉甚五郎は戊辰戦争で各地を転戦後、函館で降伏しましたが、坂本龍馬の
暗殺犯の容疑者として東京に送られ、取調べ中の明治三年に獄死したといわれている
が、小塚原で斬首されたともされている。
墓は最初、この小塚原の回向院にあったそうだが、その後八王子の上野町にあった大
法寺に改葬された。
この大法寺が昭和42年に現在の鑓水に移転したため、横倉甚五郎の墓も今はこの大
法寺本堂裏にある「まや霊園」にあるというわけだ。
横倉甚五郎の享年は参考資料には三十七才と書かれていたが、墓には明治三年八月十
五日歿行年三十五才と墓石に彫られていた。
この横倉甚五郎の墓は横倉家の墓の右手に、横倉甚五郎の子孫である横倉弥氏が昭和
五十一年秋に建立していた。
こういう事を実際に出かけて行って自分の目で調べてみると面白いだ。
横倉甚五郎については以下をご覧ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%80%89%E7%94%9A%E4%BA%94%E9%83%8E
略歴
横倉甚五郎(よこくら じんごろう、天保5年(1834年) - 明治3年8月15日(1870年9
月10日))は、武州多摩郡八王子出身の新選組隊士。天然理心流。
元治元年(1865年)、局長近藤勇による隊士募集に応じて新選組に入隊。
慶応3年(1867年)11月の油小路の変では大石鍬次郎らと共に出動。
慶応4年(1868年)1月に戊辰戦争が勃発すると、鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦い、
会津戦争を経て仙台で榎本武揚艦隊と合流し、蝦夷地へ渡航した。
明治2年(1869年)5月15日に弁天台場が降伏し、横倉は同所にて謹慎を言い渡されて
いたが、元京都見廻組今井信郎などと共に坂本龍馬、伊東甲子太郎暗殺の嫌疑をかけ
られ、同年11月9日、東京の糾問所に送検されて取り調べを受けた。
明治3年8月15日、獄死。享年37。
弁天台場降伏時に詠まれた辞世の句が残る。
「義のために つくせしことも 水の泡 打ちよす波に 消えて流るゝ 」


小杉雅之進

002 幕府脱走軍兵士

001

後列左から 小杉雅之進 榎本対馬 林董 松岡磐吉

前列左から 荒井郁之助 榎本武揚

「幕府脱走軍兵士」として知られる古写真についてさらに調べてみた。
そこでちょっと訂正させていただきお詫び申上げます。
僕は最初、左端の人物は瀧川充太郎ではないかと考えていtが、どうやら違うよう
だ。
添付の集合写真を眺めているうちに小杉雅之進で正解なのでは思ったのである。
この左端の人物は小杉雅之進の方が似ていると思った。
そこでさらに小杉雅之進について、合田一道 編著、小杉伸一 監修『小杉雅之進が描
いた箱館戦争』(北海道出版企画センター、2005年)を読んで調べてみた。
この本に慶応元年に横浜で撮影された小杉雅之進肖像写真が掲載されていた。
また、小杉雅之進肖像写真(都筑区荏田東 小杉伸一氏)が横浜開港資料館に寄贈さ
れたそうなので、これも近いうちに観に行こうと考えている。
小杉雅之進については以下をご覧ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%89%E9%9B%85%E4%B9%8B%E9%80%B2
略歴
安政4年(1857年)、長崎海軍伝習所三期生に選ばれ、機関学を学ぶ。その後、軍艦操
練所教授方手伝となり、万延元年(1860年)、咸臨丸の太平洋横断時には蒸気方の見
習士官を務めた。慶応3年(1867年)、軍艦蒸気役一等となり、開陽丸機関長を務め
た。戊辰戦争では榎本武揚に従い、箱館政権では江差奉行並となった。
赦免後、明治7年、内務省駅逓寮十等出仕、以後、明治14年、農商務省商務局二等
属、管船局准奏任御用掛(同僚に小笠原賢蔵、矢田堀鴻ら幕府海軍関係者)、明治18
年、逓信省管船局御用掛准奏任(同僚に矢田堀鴻、森本弘策)、司検官、船舶課長、
大阪船舶司検所長を歴任、海事行政を担当した。退官後、大阪商船の監督部長となっ
た。


静寛院宮(和宮)の写真について

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←和宮(かずのみや)?

といわれる写真

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        英照皇太后→              

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  第十四代将軍・徳川家茂の正室・静寛院宮(和宮)の写真といわれる写真がある。
この写真は近年、「徳川将軍家展」でも紹介されて話題になったが、実をいうと僕は
ちょっとどうだろうかと考えている。
この写真は添付の英照皇太后の肖像写真と比較すると、髪型のせいもあるが似ている
と思う。
内田九一が明治になって撮影した英照皇太后の肖像写真の別カット、もう少し正確に
書けば時期をおいて二度目に撮影した写真ではないだろうか。
内田九一は明治天皇、昭憲皇太后、英照皇太后の撮影を公式に許された最初の写真師
なのである。
それにしても篤姫役の宮崎あおいちゃんと和宮役の堀北真希ちゃんの美しいこと、旬
の女優さんは今光り輝いている。
そんなことを考えながらNHKの大河ドラマ「篤姫」を見ている今日この頃だ。
和宮については以下をご覧ください。
http://f40.aaa.livedoor.jp/~paulnobu/kazunomiya.html


新門辰五郎の肖像写真 その二

新門辰五郎の肖像写真について、「静岡で写真を趣味の一つにしていた徳川慶喜が、
新門辰五郎を撮影したといわれている」と書いたが調べてみた。
まずは徳川慶喜について詳しい松戸市戸定歴史館の斎藤洋一先生に先のコラムに書いた内容についてご意見を伺った。
すると、「辰五郎の写真を慶喜が撮影したという逸話に対しては、かなり疑問を感じ
ます。私が調べた範囲では、慶喜が間違いなく自分で写真を撮影し始めたのは明治26
年からですので、果たして慶喜が辰五郎を撮影したという話の根拠は何なのだろうと
考えてしまいます。」というお答えをいただいた。
また、
①新門辰五郎は静岡の常光寺に子分数名と住んで、慶喜の身辺を守っていた。
②明治2年12月、清水港本町の廻船問屋松本屋の奥座敷で、新門辰五郎と次郎長が
会見している。
慶喜の身辺をどう守るかというテーマについて話し合ったのだ。
明治2年12月の松本屋奥座敷での右の会談を証言したのは、当時12歳で松本屋に
小僧として奉公していた保田七蔵である。
保田七蔵は後に函館に渡り、事業を成功させて清水にもどり、晩年を過ごすが、昭和
14年頃、梅蔭寺の月心和尚に小僧時代の目撃談を語ったらしい。
保田七蔵翁は大柄な身体に富士登山者が携行するような杖を片手にし、月心和尚の隠
居所にしばしば訪ねていた。  
月心和尚に取材してまとめた河原井淡著「実録次郎長物語」には、次のように書かれ
ている。
「十畳の座敷には辰五郎と次郎長が向いあい、その両側に武士と松本屋が座って
た。」
③次郎長に後事を託した新門辰五郎は、明治四年に東京へ引揚げる。
ということで、明治26年から自分で写真を撮影し始めた徳川慶喜が新門辰五郎を撮影
することは、ちょっと考えられないのである。
但し、静岡時代に徳川慶喜の身近に居た中島鍬次郎という人物がいた。
この中島鍬次郎は写真術を修得し、幕末から徳川慶喜の傍で写真撮影をしている。
この中島鍬次郎に徳川慶喜が命じて、新門辰五郎を撮影することにしたということは
考えられる。
このことが後に辰五郎の写真を慶喜が撮影したという逸話になったのではないだろう
か。
いずれにしても当事者の日記や書簡などの一次資料に、確かなことが書かれていない
のかどうかもう少し探索する必要がありそうだ。
ということでこれについては宿題としてもう少し調べてみようと思う。


函館戦争 まとめ

函館戦争 「幕府脱走軍兵士」として知られる古写真  まとめ

さて、「幕府脱走軍兵士」として知られる集合写真について、僕の見解、仮説をまと
めてみると、左から、不明(瀧川充太郎か)、川村録四郎、甲賀源吾、人見勝太郎、
不明(大鳥圭介か)ということになる。
もちろん、これで確実に、完全に人物を特定できたわけではない。
特に両側の二人に人物については今後も検証が必要となる。
こうして一枚の古写真を僕は毎日眺めては、他の古写真を探して比較したり、参考に
なりそうな書籍を見つけて読んでいる。
そのため、膨大な時間と手間、お金もかけることもある。
しかし、こういう謎解きにも似た時間を過ごすのが楽しいのだ。
この集合写真でいえば撮影した写真師が田本研三なのか木津幸吉なのかを特定するには、まだ何年もかかるような気がする。
今回はこの集合写真もまた僕の宿題の一つとなってしまったが、いつの日にかまた別の古写真を眺めている時にでも、ひょっこりと思い出して解決するのではないかと期待している。
また、こういう調査の過程で調べた参考書籍が別の古写真の解明に役に立つことも多い。
それにこうして知り合えた瀧川充太郎、川村録四郎、甲賀源吾、人見勝太郎、大鳥圭
介のお墓を週末の散歩の時にでも探して観に行くという楽しみもまたある。
ここまで読んでいただいて退屈だったかも知れないが、おつき合いくださりお礼申上げます。
やれやれ。


函館戦争 その六

今回は「幕府脱走軍兵士」として知られる集合写真の六回目です。
蝦夷共和国の幹部たちについてさらに調べてみる。
しかし、陸海軍裁判頭取 竹中重固については写真が見つからないため確認できな
い。
また、開拓奉行 沢太郎左衛門、歩兵頭 古屋佐久左衛門、陸海軍裁判頭取 今井信
郎、江差奉行 松岡四郎二郎 (松岡磐吉)は写真があるが一番右端に座っている人物
ではない。
では副総裁の松平太郎はどうであろうか。
これは添付の写真を見ていただきたいが、これも僕は違うと思う。
陸海軍裁判頭取 竹中重固の可能性はどうなんだ?とは聞かなかったことにしたい、
・・・・
沢太郎左衛門については下記をご覧ください。
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/sawatarou.html
古屋佐久左衛門については下記をご覧ください。
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu2/furuya.html
松岡磐吉については下記をご覧ください。
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/matuoka.html
今井信郎については下記をご覧ください。
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu/imai.html
松平太郎 については添付の写真をご覧ください。
**************************************
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「幕府脱走軍兵士」として知られる古写真については下記をご覧ください。
http://members.at.infoseek.co.jp/Bakumatu/hako_dasso.htm


函館戦争 その五

003

 

 

 

 

 

 

  右から2番目が松平太郎

 

 

 

今回は「幕府脱走軍兵士」として知られる集合写真の五回目です。
蝦夷共和国の幹部たちについてさらに調べてみる。
しかし、陸海軍裁判頭取 竹中重固については写真が見つからないため確認できな
い。
また、開拓奉行 沢太郎左衛門、歩兵頭 古屋佐久左衛門、陸海軍裁判頭取 今井信
郎、江差奉行 松岡四郎二郎 (松岡磐吉)は写真があるが一番右端に座っている人物
ではない。
では副総裁の松平太郎はどうであろうか。
これは添付の写真を見ていただきたいが、これも僕は違うと思う。
こうやって消去法的に調べてみると、一番右端に座っている人物はやはり土方歳三の
ように思える。
また、中央の三人、川村録四郎、甲賀源吾、人見勝太郎といっしょに写っていること
も考慮すると、この「幕府脱走軍兵士」の集合写真は函館で撮影された写真として断
定していいと僕は思う。
陸海軍裁判頭取 竹中重固の可能性はどうなんだ?とは聞かなかったことにしたい、
・・・・
沢太郎左衛門については下記をご覧ください。
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/sawatarou.html
古屋佐久左衛門については下記をご覧ください。
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu2/furuya.html
松岡磐吉については下記をご覧ください。
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/matuoka.html
今井信郎については下記をご覧ください。
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu/imai.html
松平太郎 については添付の写真をご覧ください。
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「幕府脱走軍兵士」として知られる古写真については下記をご覧ください。
http://members.at.infoseek.co.jp/Bakumatu/hako_dasso.htm


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