慶応元年(1865年)には歩兵指図役頭取となり、横浜で大鳥圭介と共にフランス式軍事
伝習を受け、慶応四年(1868年)一月に軍艦頭を命じられて海軍職に復帰、海軍副総裁
榎本武揚らと共に新政府軍支配下に置かれた江戸を脱出、箱館戦争に身を投じた荒井郁
之助という人がいる。
宮古湾海戦では、元フランス海軍士官ニコールの発案で、箱館政権(蝦夷共和国)の海軍
奉行・荒井郁之助、回天艦長・甲賀源吾らが宮古湾に停泊中の甲鉄を奪取する作戦を立
案し、フランス軍事顧問団のブリュネと総裁・榎本武揚がこれを承認した。
降伏後は死刑を免れて榎本らと共に開拓使の役人として新政府に出仕し、明治九年
(1876年)六月に辞任して農学校・女学校校長を勤めている。
その後は気象学・翻訳に励み、後に明治十年(1887年)に新潟県の永明寺山(現在の三
条市)において皆既日食観測を行った際に日本で初めて太陽コロナの写真撮影を成功さ
せている。
また明治二十三年(1890年)八月には初代中央気象台長に就任し、明治二十七年(1894
年)には正五位を賜っている。
というわけで先日の皆既日食を見てたら、荒井郁之助のことを思い出した。
さらに調べてみると明治五年に「壬申戸籍」が編製された際に、荒井郁之助
は本来、「士族」とするところを断り、あえて「平民」として記入している。
これは士族復帰の話もあったが本人が固辞し、平民のままでいたようだが、その時質問
を受けた荒井は、「敗軍の将、再び兵を語らず。牢獄から出てきた時に剣を捨てて、生
まれ変わって再生をしたのであるから、平民となるのである」と答えたそうだ。
荒井郁之助は元々、海軍職に深く携わっていた人なのだが、水泳が不得手で、更に下戸
だったという。
荒井郁之助については下記をご覧ください。
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