大坂にあって新撰組の屯所隊長を務めていた谷万太郎という人がいる。
三人兄弟の二番目で、兄は谷三十郎、弟に谷周平がいる。
兄の谷三十郎は、慶応2(1866年)年4月1日、京都東山の祇園社
(現:八坂神社)石段下にて頓死し、弟の谷周平は
近藤勇の養子となっている。
谷万太郎の方はその後、新撰組を抜け、維新後も大坂で道場を経営していた
が、後に道場経営に失敗し、商家の用心棒をしながら余生を過ごした。
妻・スエ(旧姓・岩田)とも離婚して、愛人であった吉村たみと同棲している。
この谷万太郎の妻・スエの実父が中山大納言の侍医・岩田文碩で、
谷万太郎とスエの間に産まれたのが、岩田弁太郎になる。
別居した谷万太郎と吉村たみとの間には子供はいなかったようだ。
こういう家族事情から谷万太郎が写ったガラス湿板写真は、大坂谷町で
洋装店を営んでいた岩田弁太郎家に伝わった。
ご覧の一枚目(左)の写真が中山大納言の侍医・岩田文碩の写真で、
二枚目(中央)の写真が谷万太郎の写真、三枚目(右)の写真が
谷万太郎の最初の妻・スエ(旧姓・岩田)の写真である。
谷万太郎の写真については前にも書いたとおり、市松模様の敷物が写っている
ことから、京都の写真師・堀与兵衛が慶応年間に祇園支店(写場)で撮影している。
一方、岩田文碩の写真については詳細が不明なため、まだ何とも言えないのだが、
この写真は大坂の写真館で撮影された写真のような気がする。
もしかしたら心斎橋傍(摂陽心斎橋北街)で営業していた中川信輔の写真館
かもしれない。
ちなみに慶応元年八月に木村兵庫頭(木村摂津守)もこの中川信輔の写真館で
写真を撮っている。
谷万太郎は明治十九年(1886年)、食道ガンのため大阪にて死去。
享年五十一歳。墓所は、大阪市北区の本伝寺にある谷累代之墓の墓石に、
兄の谷三十郎、弟の谷周平と共にその名が刻まれている。
参考資料『ホタルと新選組 里村欣三の母方の系譜をめぐって』
http://www.geocities.jp/satomurakinzou/tanisankyoudai.html
谷万太郎については下記をご覧ください。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E4%B8%87%E5%A4%AA%E9%83%8E