東京・「銀座通の馬車鉄道」 2

大判手彩色古写真 東京銀座 馬車鉄道

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ご覧の大判手彩色古写真は、「新橋方向ヲ望ム銀座通」の写真だ。
この手彩色古写真にも「鉄道馬車」が写っている。
前回の補足にもなるのだが、松山から東京に戻ってきた坊ちゃんが知り合いの紹介で
就職するのが、「街鉄(がいてつ)の技手」だった。
街鉄とは「東京市街鉄道」のことで、一般に都電のことをいう。
明治36年(1903年)に東京馬車鉄道が電化され「東京電車鉄道(東電)」が、品川~
新橋間を開業。
同年に「東京市街鉄道(街鉄)」が数寄屋橋~神田橋間を開業。
明治37年(1904年)に「東京電気鉄道(外濠線)」が土橋(新橋駅北口)~御茶の水
間を開業。
明治39年(1906年)にこの「東京電車鉄道(東電)」と「東京市街鉄道(街鉄)」と
「東京電気鉄道(外濠線)」が合併して、「東京鉄道(東鉄)」が成立。
さらにこの「東京鉄道(東鉄)」が後に「東京市電」となっている。
だから、坊ちゃんが「街鉄の技手」になったのは、明治36年から39年の間である
ことが、このことでわかる。
ここで「技手」というのは、辞書を引くと「1 官庁・会社などで、技師の下に属す
る技術者。2 旧制の官庁で、技師の下に属した判任官または判任官待遇の技術官。
ぎて。 」とあるので、坊ちゃんの場合、「東京市街鉄道で、技師の下に属する技術
者」になったという意味だろう。
「清の墓は小日向の養源寺にある。」と夏目漱石は小説「坊ちゃん」で最後に書いた
が、この養源寺は今の本駒込にあるお寺で、小日向にはない。
また「清のお墓」のモデルは「米山家の墓」だが、このお墓は夏目漱石の親友であっ
た米山保三郎という人の家のお墓だ。
米山保三郎自身は、漱石の小説「我輩は猫である」に出てくる「曾呂崎という男」だ
ということになっているが、このモデルが米山保三郎だ。
米山保三郎は明治30年(1897)5月29日、享年二十九歳で亡くなった。
親友の訃報を漱石は熊本で聞いて嘆いた。
こうして僕は一枚の古写真から次々といろんなことを連想して調べている。
さて最初に戻ってこの「新橋方向ヲ望ム銀座通」の写真を眺めていると、次に気がつ
くのは「鉄道馬車」の上に見える洋風の建物、塔だろう。
この塔は「京屋時計店銀座支店」の時計塔だ。
つまり、旧三和銀行のある場所にこの時計塔は建っていた。
だから、この写真の撮影場所は尾張町角、今の銀座四丁目の交差点のあたりから、新
橋方向を写したものだ。
この時計塔は明治九年から大正二年六月に取り壊されるまでここにあった。
また、新橋~日本橋間の「鉄道馬車」が開通するのは、明治十五年六月十五日だか
ら、この写真は、明治十五年六月十五日から大正二年六月までの間に撮影されたこと
となる。
さらに絞り込めば銀座の柳がご覧のように繁って並木になるのは明治十七年以降の話
というから、この大判手彩色古写真は明治十七年以降の明治期後半に撮影された「横
浜写真」と云ってもいいだろう。
それにしてもこの銀座の空の広さはどうであろうか。
東京にもちゃんと空があった時代が今ではとうてい信じられないが、少し悲しい気分
にもなる。



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