土方歳三写真の謎 その五

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前回までの記述で土方歳三の写真は函館で、明治元年十二月十五日から明治二年四月
九日の間に撮影されたとご理解いただけたと思う。
今回は誰が撮影したかという問題について考えてみたい。
幕末の初期、函館の写真師ということならば、安政五年九月に来日した初代駐日ロシ
ア領事ゴシケヴィッチがの趣味で行っていた写真術がその技術も高く、また領事に随
行してきた医師アルブレヒトと交代して、文久三年に着任してきたゼレンスキーが有
名ではあるが、ゴシケヴィッチは慶応元年に帰国しており、ゼレンスキーも慶応二年
に帰国していることから、この二人は土方歳三を撮影することはできない。
次にこの二人から写真術の伝授を受けた横山松三郎、木津幸吉(剛吉)と田本研造が
最有力候補となる。
横山松三郎、木津幸吉(剛吉)、田本研造の略歴については下記のサイトをご参照し
ていただきたい。
さてこれらの三人が土方歳三を撮影した可能性が高いことになるのだが、木津幸吉
(剛吉)は明治二年五月に函館戦争が終結した後、公家の清水谷公考と共に東京へ転
住したといわれている。
そして明治九年十二月出版の「東京写真見立競」では「年寄 下谷 木津剛吉」とし
て登場している。
このことは後に説明するがちょっとご記憶願いたい。
また、明治二年に上京する際に木津は撮影機材やネガなどを全て田本研造に譲り渡し
て上京したといわれている。
従って市立函館図書館所蔵「田本研造旧蔵写真アルバム」に旧幕府軍の幹部たちの写
真が掲載されているとはいえ、このことだけで田本研造の撮影だと断定するのはまだ
難しいのである。
横山松三郎についても考えてみよう。
佐藤清一著『函館文化発見企画1 函館写真のはじまり』によれば、田本が営業中の
明治三十六年十二月十五日発行『北海道立志編第二巻』の田本研造の項に、
「横山松三郎なる者ありて少しく写真術を会得せしを以て之に就て学び
自研自究先づ専ら写真器械製造に工夫を注ぎ漸く玉鏡及び箱を製造するを得たり
業末だ央ならざるに幕府の脱走士榎本釜次郎の部下氏の前を過ぎりて写真器械を製造
するを見切りに撮影を求む」
とある。
つまり、ここでは榎本釜次郎の部下たちが田本研造に撮影を依頼していることがわか
る。
横山松三郎は撮影していないのだ。
もっとも横山松三郎は山口才一郎が『旧幕府』(第参巻第七号)に掲載された下岡蓮
杖の自伝「写真事歴」を引用すれば、「慶応四年撮影ノ業ヲ江戸両国元坊ニ開ク 次
テ下谷池之端ニ移転セリ」とあることから、すでに函館に居なかったのだろう。
また、田本の葬儀の際に、写真師・紺野松次郎の弔辞に、
「五稜郭の役あり徳川の脱士等先生の写真の技を弄ぶを見て珍として争いて其門を訪
ふ榎本泉州以下富年お小照今日に散見するもの皆先生の神技の賜なり」
と、紺野松次郎は旧幕府脱走軍の幹部たちの写真撮影は、田本研造が撮影したことで
あると語っている。
さらに田本研造の履歴についても、本人が存命で活躍中の明治二十一年二月十九日付
函館新聞に、
「(前略)其後元治慶応の頃函館へ下り横山木津両氏に就きて写真の術を修め大いに
自得せる所あり
明治元年氏自ら写真鏡を工夫製造し薬剤を備へ写術を試みたり
明治二年は恰も旧幕脱士の入込みたる時なりしば諸士頻りに氏の許に来り写影を求め
脱士諸士の像を写つしたるもの頗る多かりしといふ(後略)」
とあることから、状況証拠ながら木津幸吉(剛吉)が撮影した可能性は薄く、田本研
造が撮影した可能性が非常に高いことがこのことからもわかる。
まとめると現時点での情報を考えれば、土方歳三の写真は函館で、明治元年十二月十
五日から明治二年四月九日の間に田本研造が撮影したのである。
函館のどこで撮影したについては、この当時、田本研造は現在の元町東本願寺函館別
院(英国人貿易商フレタの家があった所で、後の「叶同館(協同館)」)の近くの露
天写場で開業していたことから、おそらくこの場所で撮影されたものと考えられる。
田本研造は後に近くの会所町に移り本格的な写真館(写場)を開業するが、この場所
ではない。
蛇足ながら、この田本写真館は函館の大火で焼失、同所での再建を繰り返しているこ
とから、オリジナルの土方歳三の写真(湿板ガラス写真)は、焼失したものと考えら
れる。
【参考資料】
『旧幕府』(第参巻第七号)
佐藤清一著『函館文化発見企画1 函館写真のはじまり』(五稜郭タワー株式会社、
平成十一年)



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