新撰組隊士 横倉甚五郎

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ここ数年、近藤勇の肖像写真について研究していることもあって、新撰組関係の参考
本があると入手して読むようにしている。
最近の本では、松浦玲著『新選組』(岩波新書)、大石学著『新選組 「最後の武士」
の実像』(中公新書)がよかったと思う。
さて、先日お天気は曇天とよくなかったのだが、週末のウォーキングで急に思い立っ
て、京王線・北野駅まで行くことにした。北野駅前からバスに乗って北野台のバス停
で下車、「絹の道」という山道を歩いて、柚木街道まで出る。
柚木街道を西に歩いて鑓水という土地にある日蓮宗のお寺、大法寺本堂裏にある「ま
や霊園」に行ってきた。
北野台から大法寺までの約5キロの行程を「絹の道」も含めて早歩きでおよそ1時間
で歩いた。
その途中にある鄙びた地元の神社「諏訪神社」と、「絹の道資料館」にも立ち寄った
ので、かなりハードなウォーキングとなってしまった。やれやれ。
さて、この「まや霊園」には、元新撰組の隊士で横倉甚五郎という人のお墓があっ
て、そこが本日の僕の真の目的地だったからだ。
この横倉甚五郎という人は、元治元年(1865年)に近藤勇による隊士募集に応じて伊
東甲子太郎らと共に新選組に入隊した人で、油小路の変には大石鍬次郎らと共に出動
参加している。
また、慶応三年(1866年)十二月に伏見街道を下った墨染を過ぎた辺りで、高台寺党
の残党が近藤勇を狙撃した際にその護衛に当っていた人物だ。
その後、横倉甚五郎は戊辰戦争で各地を転戦後、函館で降伏しましたが、坂本龍馬の
暗殺犯の容疑者として東京に送られ、取調べ中の明治三年に獄死したといわれている
が、小塚原で斬首されたともされている。
墓は最初、この小塚原の回向院にあったそうだが、その後八王子の上野町にあった大
法寺に改葬された。
この大法寺が昭和42年に現在の鑓水に移転したため、横倉甚五郎の墓も今はこの大
法寺本堂裏にある「まや霊園」にあるというわけだ。
横倉甚五郎の享年は参考資料には三十七才と書かれていたが、墓には明治三年八月十
五日歿行年三十五才と墓石に彫られていた。
この横倉甚五郎の墓は横倉家の墓の右手に、横倉甚五郎の子孫である横倉弥氏が昭和
五十一年秋に建立していた。
こういう事を実際に出かけて行って自分の目で調べてみると面白いだ。
横倉甚五郎については以下をご覧ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%80%89%E7%94%9A%E4%BA%94%E9%83%8E
略歴
横倉甚五郎(よこくら じんごろう、天保5年(1834年) – 明治3年8月15日(1870年9
月10日))は、武州多摩郡八王子出身の新選組隊士。天然理心流。
元治元年(1865年)、局長近藤勇による隊士募集に応じて新選組に入隊。
慶応3年(1867年)11月の油小路の変では大石鍬次郎らと共に出動。
慶応4年(1868年)1月に戊辰戦争が勃発すると、鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦い、
会津戦争を経て仙台で榎本武揚艦隊と合流し、蝦夷地へ渡航した。
明治2年(1869年)5月15日に弁天台場が降伏し、横倉は同所にて謹慎を言い渡されて
いたが、元京都見廻組今井信郎などと共に坂本龍馬、伊東甲子太郎暗殺の嫌疑をかけ
られ、同年11月9日、東京の糾問所に送検されて取り調べを受けた。
明治3年8月15日、獄死。享年37。
弁天台場降伏時に詠まれた辞世の句が残る。
「義のために つくせしことも 水の泡 打ちよす波に 消えて流るゝ 」



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