矢田堀鴻

0102 

先日の日曜日に、ちょうど植松三十里著『群青~日本海軍の礎を築いた男~』という
矢田堀鴻を主人公とした小説を読んだので、早稲田の宗源寺に行ってきた。
矢田堀鴻については下記をご覧ください。幕府海軍のエリートの一人だ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E7%94%B0%E5%A0%80%E9%B4%BB

ついでに早稲田界隈を久しぶりに散歩した。
主に夏目坂界隈の夏目漱石ゆかりの場所(生誕地、終焉の地)や有島武郎旧跡跡や附近のお寺を見て歩いた。
宗参寺には山鹿素行のお墓、牛込氏のお墓があり、宝祥寺には歴史小説の創設者・塚原渋柿のお墓があったので、見学のついでにお参りして来た。
夏目坂には他にも誓閑寺というお寺があり、ここの鐘の音は漱石の幼い頃の思い出として『硝子戸の中』でも書かれている。
夏目坂を下って地下鉄早稲田駅のある交差点の角には、延宝年間に開業した酒屋「小倉屋」が今でもあり、漱石の生家はこの店舗の裏にあった。
この店はあの有名な高田馬場の決闘の際に中山安兵衛が決闘に駆けつける前に、この店で升酒を飲んだという。
さて、歩きたらないのでもう少し歩くことにして、早稲田通リを西に歩き、諏訪通りを歩いてJR高田馬場駅方向へ行くことにした。
途中に諏訪神社、玄國寺がある。
この玄國寺は、岩倉具視の屋敷を移築した建物がありまして、本堂横の庫裏の建物がそうだ。
諏訪通りを少し戻って今度は明治通りを北に歩き、道の途中にある島村抱月旧居跡を探したがこれは見つからず、そのまま再び早稲田通リに出て、西早稲田三丁目二十七番地の五、六を探す。ここが江戸川乱歩の旧居跡なのだが、ここにも説明の板も碑も何もなかった。
しかたがないので明治通りを西に歩き、JR高田馬場駅前のロータリーを今度は南に下がって、志賀直哉の旧居跡も観てきた。
この日の散歩はこれでお終い。
あー、やれやれ、疲れました。

東京 芳町 芸者 奴

01 02 03

 

芳町の芸者、「奴」の名刺判写真は時々見つけることがある。
ご覧の写真もそんな一枚だ。
芳町とは正式には葭町(よしちょう)といい、今の人形町から浜町一帯をさす花柳界の
ことだ。
この葭町は柳橋らと並んで東京でも最も古い花柳界の一つであり、江戸時代より葭町
の名で親しまれてきた。
新橋や赤坂の花柳界が太平洋戦争の戦禍で再出発を余儀なくされる中、葭町は幸い大
きな戦火を逃れ、明治の面影を残しつつ、戦後まもなくから三業地帯として栄えた。
昭和から平成にかけては、移りゆく社会の趨勢のため、葭町でも数々の料亭がお店を
閉めが、老舗料亭の「濱田家」などを中心に、今も花柳界の伝統を守りながら息づい
ている。
この葭町で、芸者の「奴」という名前は新橋の「ぽんた」とならんで、花柳界でも名
妓にしか与えられない名跡だ。
初代の「奴」は、明治時代の論客、福地桜痴に愛されたが、結核のため早逝してい
る。
この名刺判写真の芸者「奴」がその初代の「奴」の姿ならうれしいのだが、さすがに
僕もそこまではわからない。
さて余談だが、日本の女優第一号として明治の演劇史を飾った川上貞奴は、この葭町
でも指折りの芸者置屋浜田屋の芸妓であった。
【川上貞奴】
本名貞。明治4年(1871)生まれ。
幼い頃、芳町の芸者屋浜田屋の養女となり、やがて奴と名乗って芸者に出、伊藤博文
の寵を受けた。
明治23年(1890)、川上音二郎と結婚。以後川上一座と共にした。
川上一座海外渡航の時、始めて貞奴と名乗って舞台に立ち、欧州を巡業して一躍その
名を高めた。
帰朝後は新演劇運動に活躍し、女優養成所を設けて多くの女優を育成した。
昭和21年10月7日没(1946)、享年76歳。

横浜 田中家仲居時代のおりょうさん

   04 0203

01

 

 

 

 

 

 

今年五月に、『「若き日のおりょうさん」論争に決着か』という新聞記事が各新聞、ス
ポーツ新聞などに掲載された。
そのうちの一つで、以下はスポニチの新聞記事である。
「若き日のおりょうさん」論争に決着か
研究者やファンの間で坂本竜馬の妻「おりょう(竜)」かどうか論争になっていた若
い女性の写真を、警察庁の科学警察研究所が、本人と確認されている晩年の写真と比
較、15日までに「同一人物の可能性がある」との鑑定結果をまとめた。鑑定を依頼し
た高知県立坂本竜馬記念館が同日、発表した。論争の対象は、格子柄の着物を着た30歳前後とみられる女性の写真。裏に「たつ」と書かれ、おりょうだという声が出る一
方、「若いころは撮影を拒んでおり、別人」との意見も出て、見方が分かれていた。鑑
定は顔の輪郭など7項目を精査。目や鼻の位置などに整合性が認められ、「別人である
ことを本質的に示す根拠はない」と結論づけている。
[ 2008年05月16日スポニチ]
この記事によると、警察庁の科学警察研究所は、「同一人物の可能性がある」、「別人
であることを本質的に示す根拠はない」と述べているようだが、これは要は「同一人物
だと100%断定できないけど、別人だとも100%断定できない。私たちには鑑定できませ
んでした。」と述べていることに等しいと僕は思う。
だから何のために記者発表したのかも僕にはよくわからなかった。

さて、若い頃のおりょうさんが横浜の田中家という料亭で仲居をしていて、この田中家
の従業員たちが撮影された集合写真の中に、若い頃のおりょうさんが写っているという
話しがある。
ご覧の新聞記事と集合写真がそうだ。
田中家では当時、彼女は三十七歳位と言っているそうだから、そうするとこの写真は、
明治10年頃の写真になる。
参考までに、明治37年に撮影された64歳の「おりょう(龍子)」の写真が三枚目の写真
だ。
しかし、この田中家の集合写真に写っている女性の髪形は、よく見ると庇髪になってい
る。
庇髪は明治35年頃から始まり、明治37年には一般に「二百三高地」と云われ流行した。
ということは、・・・この田中家の集合写真は、明治35年頃以降に撮影された写真であ
ることがわかる。
従って、明治37年に撮影された64歳の「おりょう(龍子)」の写真と比較すると、一目
瞭然だが、この田中家の集合写真に写っている女性は別人ということになるだろう。
四枚目の参考写真はおりょうさん(楢崎将作の長女)の実の妹(楢崎将作の三女)で、
菅野覚兵衛(前列左)と結婚した「きみ(起美)」さんの写真(前列右端)だ。
実の妹だけに晩年のおりょうさんの写真と比較しても、よく似た容姿の女性であること
がこれでわかる。
僕はおりょうさんの若い頃の写真が存在するならば、この「きみ(起美)」さんのよう
な女性の写真だと考えている。

深川芸者 おまつ

010203040506

 

芸者とは宴席において三味線などの遊芸で興を添える職業女性のことをいうが女郎で
はない。
だから、原則としては売春はしない。
芸者の中でも、特に深川の芸者は江戸時代から粋で気風が良いので評判が高かった。
深川が江戸の東南(辰巳)に位置した為、深川の芸者は辰巳芸者とも呼ばれた。
辰巳芸者の詳細は下記をご覧くださいませ。
http://www.asahi-net.or.jp/~QR2M-SKMT/f207.htm
さて、今回紹介する古写真はそんな深川芸者(辰巳芸者)の一人、「おまつ」さん
だ。
実は僕はこの深川芸者・おまつさんの名刺判写真が気に入っている。
だって、彼女の写真を見ると、美人でしっかりもので、元気がいいというまさに辰巳
芸者の代表的な雰囲気を感じさせる容姿だからだ。
深川といえば現在の江東区門前仲町を中心としたエリアで、僕が住んでいた江東区の
枝川や南砂からは近い場所だ。
というわけで僕はよく休日は門前仲町までお散歩している。
おまつさんのような粋な美人がいる店ならば、毎週飲みに通いたいところだが、残念
ながらまだ見つかってない。
芸者のことを調べてみると、成島柳北もいいけれど、漢文なので僕にはちょっと難し
いが、『女芸者の時代』(岩井良衛、青蛙房、昭和49年)という名著があって助
かっている。
つい最近入手した柳橋芸者の古写真で、「浪吉」と「小常」の写真があったのだが、
この本にちゃんとその略歴が書かれていて助かった。
もっともオリジナルの情報を書いたのは成島柳北で、明治十二年に雑誌「花月新誌」
に成島柳北が「新柳情譜」の連載していた。
この成島柳北は元幕臣で、明治になって新政府に仕えるのを断って、今でいう新聞、
言論界の人になった。
それでいて本人は花柳界に遊び、またその明治の花柳界について後世に書き残してく
れたことで名を残した。
この人も興味深い、不思議な人物だと僕は思う。

東京 王子 滝野川の茶屋

01

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

江戸時代中頃から、日暮里・道灌山・駒込・飛鳥山・王子にかけては、江戸近郊の行
楽地・観光地だった。
そのうち、今の北区王子では、王子神社から音無橋の手前で音無川に降りると、そこ
の川沿いに音無親水公園がある。
この大判手彩色の古写真は、東京王子の滝野川沿いの音無親水公園に昔あった料亭茶屋「扇屋」だ。
「扇屋」は慶安元年(1648)に、初代弥左衛門が農業のかたわら王子稲荷の参詣者を
相手に掛け茶屋を開いたのが始まり。
文人墨客や商人など町人を客とする料亭として繁盛した。
落語「王子の狐」の舞台にもなった。
隣には弥左衛門の兄が経営する「海老屋」があって、こちらは武士相手の料亭を開い
ていたという。
残念ながら現在の「扇屋」はビルに建て替えられて、居酒屋、料理店、歯医者などの
入った雑居ビルになっている。
名物だった「釜焼き(卵焼き)」は事前に予約しておけば、このビルの左手の卵焼き
の売店で、買えるらしい。
近くには、王子七滝、王子稲荷、お花見で有名な飛鳥山公演、澁澤栄一記念館なども
あるので、僕も何度かここに散歩に行ったことがある。
これを書いていたらまた王子に散歩に行ってみたくなった。
北区王子の歴史については下記もご覧ください。
http://www.kitaku.info/core/sangyo-bunka.htm

柳橋芸者 浪吉

0102

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

03

自宅の書庫で柳橋芸者について調べてみた。
参考書籍は『女芸者の時代』(岩井良衛、青蛙房、昭和49年)だ。
この本によると、明治十二年に雑誌「花月新誌」に、成島柳北が「新柳情譜」の連載
を始め、美人で有名な新橋、柳橋の芸者についての情譜を連載していた。
明治十二年頃は、柳橋ではおよそ114名の芸者がいたが、成島柳北が「新柳情譜」
で取り上げた芸者はその中でもとびきりの26名になる。
(原文はまだ未確認ですが)
この中に「浪吉」と「小常」などの柳橋芸者の情譜が出てくる。
ご覧の名刺判写真の芸者が「浪吉」だ。
明治14年に柳橋は全滅に近い大火があったので、芸者がのんきに写真を撮ってる場
合ではなかったと思うので、この名刺判写真はそれ以前に撮影されたと思われる。
写真台紙裏には特にデザインなどの意匠がないため、撮影した写真師の名や写真館名
は不明だ。
ただ、明治十二年頃に、これだけの背景がある写真館であることを考慮すると、柳橋
近くのそれなりの有名な写真師、写真館であったことが伺われる。
当初、僕はこの写真も写っている椅子のデザインが同じことから、浅草大代地の二代
目・内田九一の写真館で撮影されたものではないかと考えたが、背景の腰板のデザイ
ンで別の写真も多く見つかっており、これらの写真にも写真台紙には二代目・内田九
一の写真館を示すものが何もないため、その判断をまだ保留している。
ただ、二代目・内田九一の写真館で撮影された可能性が非常に高いと考えている。
明治天皇を撮影した初代の内田九一とその妻・お歌の間には子供はいなかったが、内
田の遠縁の娘で馬田良子を養女にして、外から養子を取り、この良子と結婚させてこ
の養子を二代目・内田九一とした。もっともこの二代目・内田九一は写真術の技量が
今一だったので、写真館の撮影技師としては初代の内田九一の弟子たちが行ってい
た。
長谷川吉次郎、古賀暁、飯岡仙之助、新井八郎、山際長太郎、内田清介などである。
しかしその後、これらの弟子たちも次々と独立してしまった。
また、二代目・内田九一も養母のお歌と蛎殻町の米商島田慶助の影響で、米穀相場に
手を出して失敗してしまい、とうとう写真館を倒産させてしまったようだ。
こうして一時は名声を拝した浅草大代地の内田写真館は無くなってしまったのであ
る。

東京 芝 紅葉館

03

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京芝、紅葉山にあった超高級料亭「紅葉館」は、明治14年(1881年)、芝の紅葉山
に開業した純和風の高級料亭だ。
開業当初は三百名限定の会員制(一人十円の出資)だったため、政界、財界人などの
ごく一部の上流階級の人間しか会員になれなかった。
もっとも明治25年以降は、会員だけでなく一般の人も使用できるようにはなったが、
超高級料亭であったため僕のような貧乏人には全く縁の無い場所だった。
また、明治の文豪、尾崎紅葉が自分のペンネームとして使ったのがこの「紅葉館」
だ。
尾崎紅葉といえば新聞小説「金色夜叉」だが、この小説の中で、すがりつくお宮を貫
一が足蹴にする場面が、その後の芝居、映画で特に有名になった。
実はこれは尾崎紅葉の実体験に基いている。
「紅葉館」の女中、お須磨と、尾崎紅葉の文人仲間の巌谷小波が恋に落ちるのだが、
お須磨は当時の大出版社・博文館オーナーの大橋新太郎に心変わりしてしまう。
これに怒ったのが尾崎紅葉で、彼は「紅葉館」の二階廊下でお須磨を激しく詰問し、
お須磨を足蹴にしたという。
このときの体験が元になって新聞小説「金色夜叉」の名場面として書かれたわけだ。
「紅葉館」は昭和20年3月10日の東京大空襲で焼失してしまうが、その後、「紅葉
館」の広大な敷地は日本電波塔株式会社に売却され、昭和33年12月23日、この場所に「東京タワ-」が完成する。

東京 芝 愛宕館

0102

 

 

 

 

 

 

 

江戸時代から江戸東京の町を一望にできる名所としては愛宕山が有名だ。
今回ご紹介する古写真はその愛宕山のやや北よりに造られた「愛宕館」(愛宕塔)で
ある。
もう一枚は同じ明治22年(1889)に東京名所図絵で紹介された「愛宕館」だ。
ちなみに同じ年には新橋に馬車鉄道開通している。
明治22年(1889)、愛宕山に旅館兼西洋料理店の「愛宕館」ができ、そのすぐ隣には
5階建ての愛宕搭が建てられた。
この塔には望遠鏡があり、東京の町が一望できた。
この「愛宕館」の入場料は大人4銭、子供2銭だった。
この頃の東京には他にも浅草の「凌雲閣」、新橋の「江木写真館の塔」があった
が、、浅草の「凌雲閣」の評判はダントツで、「愛宕館」の方は実際にはそれほど流
行らずに明治28年(1895)に「愛宕館」は廃業してしまう。
従ってこの古写真は明治22年から明治28年の間に撮影されたことがわかる。
今まで紹介してきた同形態の古写真は、全てこの「愛宕館」の写真といっしょに購入
したものなので、これらの古写真も同じ明治22年から明治28年の間に撮影されたと僕
は考えている。
もう少し正確にいえば司法省は明治28年の竣工であるから、明治28年中に撮影された
ような気がする。
では撮影者は誰なのだろうか?
そのヒントとなる写真アルバムがある。
石黒敬章氏所蔵の中島待乳撮影の東京の風景写真アルバムだ。
それで僕は今度きちんと調査してみようと考えている。

次ページへ »