近藤勇の孫娘といわれる山田とわ

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以前に僕は「近藤勇の娘といわれる山田音羽 」という話をここで書いたのだが、その後の調査で、内容に間違いがあることがわかった。
「近藤勇の娘といわれる山田音羽」ではなくて、「近藤勇の孫娘といわれる山田とわ」が正しいようだ。
島田魁の証言によれば、近藤勇の女性関係については、三本木の駒野、植野、島原の金太夫、さらには深雪太夫の妹お孝などと関係があったと事が知られている。
新選組始末記に収録されている深雪太夫の逸話に依れば、これらの女性のうち、お芳、駒野、お孝に子供が出来ている。
お孝との間にできた近藤勇の娘は「お勇」という名だ。
この子は後に芸者となって馬関に行き、伊藤博文などの贔屓を受けたとある。
また、駒野の子は出家して僧侶になったといわれている。
その他にも祇園石段下の山絹の養女・お芳とも関係があり、子供までもうけたといわれている。
この山田とわの父親、母親が誰であったかは不明とされている。

土方 愛著『子孫が語る土方歳三』

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(新人物往来社 平成17年)
この本の著者でもある土方愛さんとは、今年日野で行った「近藤勇の写真について」の講演でお会いした。
土方愛さんはもちろん土方歳三のご子孫にあたる女性だ。
講演後、土方歳三資料館の方へもお邪魔して、土方家に残る近藤勇、土方歳三などの写真も拝見させていただいた。
またありがたいことにこの本もその時に頂いた。
帰宅後、僕はさっそく読んだのだが、土方歳三の写真がどうして土方家にあるのか、その謎を解くヒントも書かれていた。
当初、僕は釣洋一先生などからも勧められて、近藤勇の写真の次には土方歳三の写真について研究してみようかと考えたこともあるのだが、土方愛さんと何度かお会いしてお話をさせていただくうちに、やはり土方歳三のご子孫である土方愛さんが、土方歳三の
写真について研究するべきだと考えるようになった。
こういう古写真の研究はヤル気がある人が何年かかっても、各地に残る土方歳三の写真を一枚一枚確認してゆくという地道な作業が必要となるからだ。
また撮影場所、撮影者の確定のために函館に何度も行く必要もあることだろう。
こういった作業にはもちろん時間もお金もかかる。
土方愛さんはこれからいろいろとご苦労されるだろうが、ぜひいい研究成果をまとめて欲しいと思う。
(期待してます)

『北海道開拓写真史 記録の原点 / ニコンサロンブックス』

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(ニッコールクラブ、非売品、1980年)
北海道の初期写真史を知るための参考資料として、『北海道開拓写真史 記録の原点 / ニコンサロンブックス』という本がある。
ニッコールクラブメンバーに配布された非売品の本だ。
この本にはモノクロ写真図版が122点も掲載されている。
その代表的な写真が、御用写真師として活躍したのが田本研三の写真だ。
明治になって新政府の主導のもと、北海道開拓の状況を把握するために写真が積極活用され、北海道の写真師たちもそういう写真を数多く撮影している。
と、ここまで書いてみたものの、正直言えば僕自身は昨年までは函館写真も含めて、そんなに興味がなかった。
まぁ、近藤勇の写真の研究がひと段落したので、釣洋一先生などからも勧められて、土方歳三の写真について調べ始めたことから、函館写真関係の参考資料を真面目に読み込み始めたというのが真相だ。
(やれやれ、いいかげんなやつですよね。)

『箱館写真のはじまり』

北海道写真資料保存会の事務局長だった故・佐藤清一氏の遺稿集に、『函館文化発見企画 1 「箱館写真のはじまり」 ~幕末から明治~』(五稜郭タワー株式会社刊、発行日/1999年4月1日)という本がある。
この本は箱館の写真史を調べるのに必要な名著でして、生前の佐藤清一先生にはお会いしてお話しを伺いたかったと思う今日この頃だ。
http://www.goryokaku-tower.co.jp/html/shop/books.html
函館戦争について調べてみると、松前藩との戦闘に勝利して蝦夷を確保した旧幕府脱走軍は、戦闘部隊の五稜郭帰還を待って、明治元年12月15日蝦夷地掌握の祝賀式典とパレードを開催している。
また、その前日にこのことを函館在留の各国領事に通知した文書が、イギリス外務省に残されている。
土方歳三の写真について調べていた僕は、この明治元年12月15日が田本研三によって写真撮影された日時ではないかと考えている。
そして明治なってこの土方歳三の写真は函館の写真館で複写されて販売されていたのだろう。
こういうことをちゃんと調べるためにこの『箱館写真のはじまり』という本は基本参考資料となるわけだ。
興味のある方にはぜひ読んでいただきたい。

和宮(和宮親子内親王・静寛院宮)といわれている写真について

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あの和宮(静寛院宮)といわれているご覧の女官の写真は、日本の軍装の研究者・平山 晋先生によると、柳澤明子の写真といういうことがようやく判明した。
最近、NHKや民放のテレビ局の番組で、きちんと調べたり、古写真専門の研究者に聞きもしないで、勝手におりょうさんの若い時の写真とか、和宮の写真とかいって放送で使用していることがある。
一般の視聴者はNHKの番組というとすぐに信じ込んでしまうため、・・・まぁ、歴史研究者もそれを信じて自著に掲載されているバカな学者も多いのだから仕方がないんですけどね。
それとは違って東京大学の西野先生が中心となって行われた「維新とフランス」展は素晴らしかった。
こういうきちんとした古写真資料の展示はこれからもどんどん行って欲しいもんです。
図録は高額だったけどこれもいい本でした。
和宮親子内親王については下記をご覧ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E5%AE%AE%E8%A6%AA%E5%AD%90%

土方歳三写真の謎 その八

まず、前回の終わりの方に、僕は下記のように書いた。
その後、この写真台紙表の下部に左から右に、「PHOTOGRAPHER  GK  JAPAN ARTIST」とデザインされた意匠が印刷された写真を何枚か見つけた。
その内の一枚がご覧の写真である。
この写真は、釧路真砂町の写真師・木村藤太が明治29年(1896)8月9日の皆既日食を撮影した珍しい写真である。
従って普通に考えればこの「PHOTOGRAPHER  GK  JAPAN ARTIST」の写真台紙の写真(以下、「GK写真」と略称す)は、釧路真砂町の写真師・木村藤太の写真館で使用されていた写真台紙と考えられる。
すると、平拙三家蔵の土方歳三の写真は、この木村藤太の写真館で複写販売されていたと考えられる。
『釧路市史』によると木村藤太は明治26年に釧路にて写真館を開業していることから、平拙三家蔵の土方歳三の写真は、これ以降に複写、入手された写真とも考えられる。
しかし、・・・・そうとも断定できないのである。
というのは、木村研が明治39年に函館会所町の田本研三の写真館を引き継いで開業していることから、この木村研の写真館で使用されていた写真台紙という可能性もあるからだ。
つまり、木村藤太と木村研という明治時代の北海道にいた写真師は、何らかの密接な人間関係があるのでは?というわけだ。
例えばそれは、
①木村藤太は後に木村研と改名した。(つまり同一人物)
②木村藤太と木村研は親子関係、あるいは親族関係
ということも十分考えられるのである。
ところが、・・・・
その後の調査で、平拙三氏所蔵の土方歳三の全身肖像写真(GK写真)は、どうやら明治十年頃に大沼沈山といっしょに北海道に行った本田退庵が、土方家、平家に「こんな写真があったよ」という感じで持ってきた写真のようだ。
そうなるとこの「GK写真」の写真館はすでに明治十年頃に存在していたということになり、明治39年に函館会所町の田本研三の写真館を引き継いで開業した木村研は、候補者ではなくなる。
木村藤太は明治26年に釧路にて写真館を開業しているから、木村藤太でもない。
ということで、また振り出しに戻ってしまいました。
うーん、・・・誰なんでしょうねぇ、・・・・この「GK写真」の写真館は。
追伸:
同様に佐藤福子氏所蔵の「土方歳三の半身の肖像写真」については、この写真の写真台紙裏に、明治十年頃、本田退庵と函館を訪れた大沼沈山が、函館戦争で散った土方歳三を讃え、弔った漢詩が書かれている。

将軍のフォトグラフィー

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千葉県松戸市の戸定歴史館刊行図録で斉藤洋一編『将軍のフォトグラフィー 写真にみる徳川慶喜・昭武兄弟  TYCOON AND PHOTOGRAPHY Tokugawa Yoshinobu Akitake』(平成4年10月9日発行)という本がある。
ご覧の本がそうなのだが、これがもうすでに完売、売り切れになってしまい入手が困難な本になってしまった。
僕は以前、何かの仕事の途中で無くしてしまい、ずいぶん前にやっと古書店で見つけて再び購入した。
この本には最後の将軍・徳川慶喜の写真アルバムにある肖像写真を中心に、徳川慶喜家、徳川昭武家の古写真が数多く紹介されている。
特に面白いのは明治時代の東京の町をスナップショットのように撮影した風景写真や、使用人(家来たち)の子供たちなどの写真だ。
とくかくこの徳川慶喜という人は幕末期から写真に興味を持っていた人で、実弟の徳川昭武といっしょに明治になると写真撮影を楽しんでいる。
こういういい本がもっと出版されればいいのに思うのだが、・・・・

土方歳三写真の謎 その七

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ずいぶん前に土方歳三の写真について連続して書いていたが、その後、新たにわかったこともあるので、記述、発言内容の訂正も含めてお知らせしたい。
まず、前回の終わりの方に、僕は下記のように書いた。
「平拙三家旧蔵写真については、写真が貼られた写真台紙表の下部に左から右に「PHOTOGRAPHER  GK  JAPAN ARTIST」とデザインされた意匠が印刷されているが、この真ん中にある意匠の「GK」については、東京下谷で開業していた木津剛吉のことではないかと僕は推察している。
木津剛吉のイニシャルが「GK」で、他に写真師が考えられないからである。
まぁ、もっとも時代が下がって別のイニシャルが「GK」の写真館で複写してもらったものかもしれないので、あくまでこれは僕の想像ということになる。
東京日野・多摩地区にイニシャルが「GK」の写真館があったという情報をご存知の方がおられればぜひご教授いただきたい。
よろしくお願いいたします。(ぺこり)」
その後、この写真台紙表の下部に左から右に、「PHOTOGRAPHER  GK  JAPAN ARTIST」とデザインされた意匠が印刷された写真を何枚か見つけた。
その内の一枚がご覧の写真である。
この写真は、釧路真砂町の写真師・木村藤太が明治29年(1896)8月9日の皆既日食を撮影した珍しい写真である。
従って普通に考えればこの「PHOTOGRAPHER  GK  JAPAN ARTIST」の写真台紙の写真(以下、「GK写真」と略称す)は、釧路真砂町の写真師・木村藤太の写真館で使用されていた写真台紙と考えられる。
すると、平拙三家蔵の土方歳三の写真は、この木村藤太の写真館で複写販売されていたと考えられる。
『釧路市史』によると木村藤太は明治26年に釧路にて写真館を開業していることから、平拙三家蔵の土方歳三の写真は、これ以降に複写、入手された写真とも考えられる。
しかし、・・・・そうとも断定できないのである。
というのは、木村研が明治39年に函館会所町の田本研三の写真館を引き継いで開業していることから、この木村研の写真館で使用されていた写真台紙という可能性もあるからだ。
つまり、木村藤太と木村研という明治時代の北海道にいた写真師は、何らかの密接な人間関係があるのでは?というわけだ。
例えばそれは、
①木村藤太は後に木村研と改名した。(つまり同一人物)
②木村藤太と木村研は親子関係、あるいは親族関係
ということも十分考えられるのである。

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